KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

深遠が深遠に応える

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人間の生死は未来に向けての航海のようなものだ。停泊地は定まってはいないのに無理に停泊地を選択せよと迫るのが「安楽死」の法制化である。人生には愉しみが限りなくあるし哀しみ苦しみも限りなくあるけれども、法律によってこれらがすべて規制され選択肢がきめられるという人生は、限りなく詰まらない、とワタシは思う。

物事には正邪を判定することが困難で不可能なこともある。法制化に馴染まない繊細極まりない生死の問題もある。繊細さはそのままにしておいた方がいい場合もある。法制化によって人間にとっての生死の繊細さが捨象されるため、問題が先鋭化され白黒に決着することを強制強要されることもある。なので「安楽死」の法制化がこの国で必要だとはワタシは全く考えない。

内村鑑三翁の言に耳を傾けてみる。

「日本人は浅い民である。彼等は喜ぶに浅くある、怒るに浅くある、彼等は唯我(が)を張るに強くあるのみである。忌々(いまいま)しいことは彼等が怒る時の主なる動機であって、彼等は深く静に怒ることが出来ない。まことに彼等の或者は永久に深遠に怒ることの如何に正しい神らしい事である乎(か)をさへ知らない。故に彼等の反対は恐ろしくない。彼等が怒りし時には、怒らして置けば其れで宜(よ)いのである。電気鰻(うなぎ)が其貯蓄せる電気を放散すれば、其後は無害に成るが如くに、日本人は怒る丈け怒れば、其後は平穏の人と成るのである。若し外国人が日本人の此心裡を知るに至らば、彼等は日本人を扱ふの途を知って彼等を少しも恐れなくなるであらう。…「深遠、深遠に応ふ」と彼等(※基督教国)の詩人は歌うた(詩篇四十二篇七節)。人は何人もエホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧州にニイチェのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起った理由は茲(ここ)に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられて、其深みを以て基督教を嘲り又攻撃するのである。東洋の儒教や仏教を以てしては到底深い人間を作ることが出来ない。」(内村鑑三全集28、p.200)

日本人は怒ってもすぐに忘れる、電気鰻のように放電して終りだ、キリスト教国の人間は宗教によって深い人間性を育んできた、儒教や仏教では深い人間を育むことはできない、と。鑑三翁が「深遠、深遠に応ふ」(明治訳聖書)としている部分は、口語訳聖書(1963)では「あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ」(詩篇42:7)とある。鑑三翁の大意は「なぜわたしを捨てられたのですか」(43:2)と神に嘆き、「おまえの神はどこにいるのか」(42:10)と人から嘲られ、「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえにわたしのうちに思いみだれるのか」(42:5)と自問を繰り返すのがキリスト教国の信仰に生きる者の生活態度・習慣であった。こうした神との心の往還の中で、罪の自覚と神との闘いが日々行われてきた人たちは、信仰の深さにおいて鍛錬されてきたことになる。それが「深遠、深遠に応ふ」という表現になったものだろう。神との”深い”やりとりは、自らの苦悶にもなった。この”深さ”があってはじめてニーチェのような大柄の哲学者が出たのも故無きことではない、と鑑三翁は記すのだ。(つづく)