KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

司法世界の異様/奇怪

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2020年9月21日の東京新聞では、大阪地検特捜部の検事による証拠改ざん発覚から10年が経過したことから、冤罪に巻き込まれた元厚生労働次官の村木敦子さんの取材記事を取り上げている。新聞のタイトルは村木さんの発言「検察は権力を抑制的に」として、その後も続いている冤罪を作りかねない検察権力の濫用に警告を発している。郵便不正事件にからんで村木さんは一連の不正に関与したとして逮捕されたが一貫して無罪を主張、その後共犯とされた部下らが自分たちの供述調書は検事のでっち上げだと証言したことから裁判で無罪になった。ところが一連の流れは検察の作ったストーリーに沿うように証拠を改ざんしたことがその後判明して、担当検事が逮捕されたのである。つまり犯罪を断罪する側の検事が犯罪者となり逮捕されるという手が付けられない事実。

アベ首相の友人として親しかった元TBS山口某は、伊藤詩織さんに対するレイプ犯として逮捕状が出されていたが、海外に出国する直前に逮捕状が握りつぶされた。事件はその後裁判で伊藤さんの勝訴となる経過をたどった。だが当初の逮捕状の握りつぶしが、官邸のアベ・スガから黒川東京高検検事長を経由して所轄警察署長へと命令が流れて実行されたのが事実だとされている。

またアベ政権の重要閣僚だった甘利衆院議員のUR疑惑、経産相だった小渕衆院議員の政治資金疑惑などが、スガー黒川のホットラインでスキャンダルを押さえ込んだので8年近くも政権が続いたとさえ言われている。だがこの黒川検事長もタレコミで賭けマージャンが発覚し辞任と言うゴミのお粗末。

政権幹部の指示によって検察のトップが罪を逸失するという司法検察の頽廃と堕落という”二権分立”と果てた日本の民主主義の虚。

ワタシには友人に弁護士など法曹関係者が何人かいる。数年前ある弁護士(都道府県弁護士会役職を歴任)と現今の法曹世界について時間をかけて議論を戦わしたことがある。その弁護士が次のように話したことが忘れられない。「多くの検察官の思念は人間《性悪説》以外の何物でもない。人間を《悪》として見れば、人間というものがほぼ理解できるというのが彼らの言い分だ」、また「裁判官の多くは世間の些事に驚くほど無知で無関心である」、そして彼ら裁判官の判断基準は「万巻の判例集と厖大極まりない六法全書の中にしかない。当事者の個々の人間の生命の息吹きや思念、微細の感情というものは限りなく排除されるのが《善》とされる世界である」、「法廷という場は、そこで正義か不正義かとか正か邪かを議論する場ではない、原告/被告にとっての相反する「利得」をいずれに得させるかを決定しようとする場である、だから検察であろうが弁護士であろうが「勝利」にしか関心がない、だから「弁論」の立つ検察や弁護士が有利、どれほどの「詭弁」を弄し恫喝できるかが裁判勝利の分岐点となる」云々。

「正義」「不正義」に基づいた法廷弁論が展開されるわけではないという彼の言質が強く印象に残る。そして倫理感覚が脱落していながら、声だけは大きく世論に迎合し詭弁を弄する何人かの弁護士出身のTVタレントや国会議員、知事の顔を思い起こした。

ワタシはこれら検察官、裁判官諸氏の現実(彼らの仕事のプロセスや中身の詳細、彼らの哲理や生きざま)を何冊かの書籍を読んで追確認した。そして恐るべきことに友人の弁護士の言が正鵠を得ていることを確認した。しかもこれらの書籍では、彼らのパーソナリティとしては「あまりに多くの犯罪に関わる判定を迫られているために機械的な判定マシンになり果てている」、「矛盾や二律背反、不条理、葛藤に懊悩することがなく、物事を哲理的に思考することがない」、「人生に飽き飽きして虚無的で倦んでいる」ことをワタシは確信した。黒の法衣をまとう裁判官も法衣を剥げば「裸の王様」である、あるいは哲理的に見れば普通の人たちが有している道徳観念や倫理観が欠如した「ただの人以下」の者が多いのだ。いわば”異様の社会”である。六法全書を食うほどにして司法試験に合格してもその後は只の人以下か世間常識を欠く異様の者‥。

毎度の警察の自白強制、検事の犯罪や裁判所の政権に諂った判決、ポピュリズムへの偏りの判決などに強い違和感を覚えることが多い。最近は頻繁である。ワタシは歴史的な書物としての「聖書」を読む。「聖書」は律法(家)について様々な箇所で記しているが、次のような言説は何千年前も今も変わらない「真実」であると考えている。

「彼ら(律法学者など)は…広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。」「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。‥外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたは、わざわいである。‥律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実を見のがしている。」(いずれも「聖書」マタイによる福音書23章)

裁判所の腐敗である、裁判官の堕落である、司法権の蹂躙である、国法の濫用である、と内村鑑三翁も書いている。