KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

鑑三翁と正造翁が共鳴を起こす

f:id:KANZO-KUN:20201009160350j:plain

明治に田中正造翁がいたことを記したが、もう一人の巨星がいる。わが愛する内村鑑三翁である。内村鑑三翁は万延2年生まれで明治大正昭和にかけて活動し昭和5年に70歳で亡くなるまで、生涯キリスト者として日本の思想界のみならずわが国に多大な影響を与えた人だ。今なおその思想は革新的で刺激的だ。今でも内村鑑三を”神の使徒”と呼ぶひとがいるのも頷ける(新保祐司:明治の光内村鑑三藤原書店、2017)。

ワタシは高校生のときに『内村鑑三不敬事件』の著者・小沢三郎先生に社会科の授業で質問を繰り返したことが縁でこの著書をいただいた。この本を読んで以来明治人の気骨を表すような堅固なキリスト者・思想家として敬愛している。

現役引退直後にワタシは長年の念願であった『内村鑑三全集』(全40巻、岩波書店)を読破すべく挑戦を始め、およそ1年数か月をかけて読了した。この間の読書MEMOは膨大な量になった。この全集のどこかで内村鑑三田中正造翁のことに触れていたことを思い出し、ようやく捜しあてたのが次に引用した記事だ。明治35年6月21日の『万朝報』に掲載された記事である。少し長いがその一部を引用する(全集では総ルビだが省略)。文面は田中正造翁への励ましと古河某に対する内奥の怒りが伺える。

田中正造翁の入獄は近来稀に聞く所の惨事である、深く此事に就て思念を運す人にして奇異の感に撃れない者はあるまい。翁とても勿論完全無欠の人でないことは余輩とても能く知って居る、然しながら此罪悪の社会に在て翁ほど無私無慾の人の多くない事も亦余輩の保証する所である、窮民の救済に其半生を消費し、彼等を死滅の瀕より救はんてする外に一つの志望もなければ快楽もない此翁は実に明治現代の一義人と称しても決して過賞の言ではなからふと思ふ。(中略) 田中正造翁に比対して翁に此苦痛を持来すの原因たりし古河市兵衛氏の状態を考へて見たらば如何であらう、若し世に正反対の人物があるとならば田中翁と古河氏である、二者大抵同齢の人にして一つは窮民を救はんとしつゝある、然るに無辜の窮民を救はんとしつゝある田中翁は刑法に問はれて獄舎に投ぜられ、窮民を作りつゝある古河市兵衛氏は朝廷の御覚え浅からず、正五位の位を賜はり、(中略) 七人の妾を蓄へ、十数万人の民を飢餓に迫らせて、明白なる倫理の道を犯しつつあるも法律に明文なければ氏は正五位の位階を以て天下に闊歩す、余輩此事を想ふて現代の法律なるものゝ多くの場合に於ては決して人物の正邪を判別するに足るものでない事を思はざるを得ない。 (以下略) 」(内村鑑三田中正造翁の入獄.内村鑑三全集10、p.213-15、岩波書店、1981)    (つづく)