KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

デストピア(暗黒郷)はすぐそこに!

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かつてワタシは安倍晋三現首相(以下彼のことをAと略す)が書いたとされる『美しい国へ』を読んだことがある。改めて確かめてみると2006年初版なのでその頃だったようだ。1968年川端康成ノーベル賞を受賞した際の講演録が『美しい日本の私』(1969年)であったから、これの受け狙いもあってこの物欲しげな書名にしたに違いないと思いつつ、ワタシは立ち読みで済ました覚えがある。どうせゴーストが執筆したのだし、Aの自民党総裁選狙いに違いないと思いながら、立ったまま読み進めていくと、あまりのふわふわした幼稚な中身にうんざりとしながらも30分ほどで読了した。もちろん数百円がもったいなくて買わなかった。この本は調べてみたら改訂新版が出ているらしい。よくも恥ずかしげもなく…。

Aの本は言わんとしている事柄に「心」がないので表面的で薄く粗雑。それはここ数年のAの国会委員会答弁や党首討論などにも表れている。最近はふわふわがさらに劣化して意味不明支離滅裂となっていること、ご承知の通りだ。

Aの関連本は以後ワタシの住む市の図書館から借りることにしている。その後出版されたAに関する本では、Aは学歴コンプレックスが相当強く、旧帝大や有名私大出身の者が多い官僚や政治家に対する暗い敵愾心を秘めているとか、虚言癖があるとか、文字通りの強烈なマザコンであるとか、〇〇コンプレックスの塊であるとか、読書は苦手で手紙も書かないとか、心を許せる友達がいないとか‥‥こう記されている。確かにAはアメリカ大統領トランプの病的性格と酷似しているな。

しかしながらなぜこのような人格的偏りの酷いAが党の総理総裁となり日本国首相であり続けるのか、なぜ年齢の若い層に限ってAの内閣支持率が比較的高いのか‥‥不思議で不可解な現象が続くので、かねてからワタシなりにその「解」を探し続けてきた。

一つの「解」をワタシはM.ピカートに見出した。ピカートはスイス生まれの医師で20世紀を代表する思想家、日本でも『沈黙の世界』『神よりの逃走』そしてここで取り上げた『われわれ自身のなかのヒトラー』(いずれもみすず書房刊)などの翻訳書がある。ワタシはピカートの鋭い分析力と公正な判断力に感銘を受け学生時代に熟読した。その中の一文。

「現代のデモクラシーのなかでは、権力者の座にすわり独裁制を確立することのできる人間は、笊(ざる)ですくうほどある、とソレル(注・フランスの社会学者)が言っている。まったくその通りである。しかし、そのようなことがおよそ可能なのは、ただ、現代社会では誰でもが無目的にどんなところへでもつるつると滑ってゆくからだ。かくて誰かがたまたま国家権力へと滑り寄る。当人自身がまったく無自覚的に国家権力へと滑り寄ることさえしばしばである。(中略) このような連関性喪失の世界において、一個の空無、もしくは一個の低劣なもの、もしくは一個の凡庸なるものが絶対者の地位におしあげられ、まるでそれが――そのまわりに万人が群れ集まらねばならないところの――民族の中心であるかのように、この絶対化された眉唾(まゆつば)ものに関して語られ、書かれ、また写真が載せられたりしたことは、何もヒトラーに始まったわけではなく、ずっと以前からあったことである。」(M.ピカート、佐野利勝訳:われわれ自身のなかのヒトラー.p.11-13、みすず書房、1965.)

ワタシはこの一文を以下のように解釈した――今日日のような社会では、ピカートが言うように、人間がつるつると滑っていくうちに、社会の核となる部分が、覆面をした低劣な”空無”な何者かによって次第に奪取されて行き、後戻りできない恐ろしい社会が出現する可能性が十分ある。そこにはおそろしく凡庸な者、モラルにおいて低劣な者たちが支配する社会が出現する。障がい者や社会的に弱い者へのスティグマを固定化し差別を合法化する。人間は自由に発想し発言することはタブーとなりタレこみを奨励する密告社会が出現する。親は子に・夫は妻に・隣のオバちゃんに私の妻が・屁のような理由で密告されるのだ、かつての日本がそうだったように。そして密告を受けるニコニコ顔の凡庸な教師や警察官たちが強大な権限を持ち始める。権力取り巻きの諂(へつら)い小説家評論家宗教家らが今でも数多いるが、彼らが先頭に立って自己愛に基づく標語だけの空っぽな「愛国心」を説き、歴史観と道徳を全国規模の講演会で説き始める、この講演会に出席しない者は即座に召喚状が出される。国の指導者たちは難癖をつけて無価値な戦争を始め、号令一下有無を言わせず若者たちに戦地出陣を命じる。日本人のゆるい精神を叩き直すと称して軍事教練を課す。もちろん”いつのまにか”国民皆兵制。現に政権政党自民党公明党そして維新の会及びそれらの支持者の中に声高に徴兵制を叫ぶ者たちも多いではないか。かつてTVゲームの戦争をカッコイイと称賛していた若者たちは戦地での戦争の殺戮と悲惨に遭遇するが時すでに遅し、戦地から仮に身体壮健で帰国しても、彼らは戦地で雨のような砲弾を浴び人殺し作戦に従事したので心に深い傷を負い、多くの者がPTSD(心的外傷後ストレス障害。この疾患は治りにくい)に罹患することになる。現実にイラクに派遣された自衛隊員の中にPTSDに罹患した者が多かったという文献もある――。

このようにして気づかないうちに「デストピア」(暗黒郷、悲劇的社会)が出現するのだ。未来の話ではない、今、その予兆をワタシは強く感じている。

ワタシは出版人の端くれとして50年近く仕事をしてきた。出版に関わる人間として「言葉」を大事にしてきたし、「言葉」の変化・変容も実際現場で体験してきた。そして今日日、「言葉」が人間相互の信頼と理解を阻むほど、チカラを喪失しているのではないかと感じている。ワタシはこのことを系統的に学問として学習しているわけではないのでうまく表現できないのだが、ここはピカートの力を借りよう。

「言葉は、人間の内部が微塵に分裂し、連続性を喪失することによって破壊される。そうなれば、真理の連関的な力、法則的で包括的な力は言葉のなかに存在することができず、したがって真理はその表現を獲得することができなくなる。言葉ははじめから嘘になるのだ。」(前掲書、p.72)

ここでピカートの言う「真理」とは、西洋哲学思想の表現で少し難解すぎる表現なので、ワタシなら「真実」・「誠意」・「誠実」・「正しさ」といった日本語に置き換えて考えてみたいところだ。それにしてもピカートのこの部分の指摘は恐ろしく的確だ。

人間の内部が分裂し破戒されることで、「言葉」は「真実」を伝える手段・居場所ではなくなってくる、そして言葉ははじめから嘘になり嘘はひたすら繰り返されて行く‥ということだ。Aを観察していると、ピカートの指摘が腑に落ちる。