KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

盪(とろ)い日本人

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そこへいくと日本人はどうだろう。どこにでも山から水は流れ作物は豊かに実り、自然環境は豊かで四季があり、山川草木の恩恵にあずかることが出来た幸福な民族である。自然の中の木々や山や岩に宿る八百万の神が信仰の対象となってきた。いつでもどこでも安直に神様は祈りを聞いてくれていた。外国との戦争もほとんどなく平穏で戦いへの備えも不要で、自ずから近隣住民との共同生活でも徹底した議論の末に決着をつけるのではなく、隣人と”何となく”物事を収め、”何となく”嫁に行き、”何となく”政治も行われてきた。日本の忖度生活、忖度政治である。日本人の盪(とろ)い生活がここにある。

一方キリスト教発祥の国々では、砂漠と岩山が国土の大半を占め人々は厳しい自然環境の下で生活してきた。水も容易に手に入らない。干ばつによる飢饉が定期的に来る。干ばつで家畜も死に絶える。戦いは頻繁で何時も戦いへの備えは必須であった。戦いは勝利すれば戦利品や奴隷は豊富に入手でき、敗北すれば村民全員が殺戮され滅亡した。常に戦いに挑み戦いの勝利のために神に祈った。神は祈りによって必ず勝利をもたらしてくれるとは限らなかった。戦いの敗北では神は人間たちの深い内省を促した。戦いの勝利の喜悦は神によって豊かに保証された。神は人間と対峙し人間は常に神への祈りの中で神の予言と厳格な命令を待った。聖書詩篇では雪は羊の毛、霜は灰、氷はパンくずと表現されている。日本ではいずれも和歌俳句の世界ではこれらは美しい自然の象徴として季語として表現されてきた。

人格をもった一神との対峙の中で生きてきたキリスト教国の人間たちと、湿度のある自然と八百万の神がどこにでも居る日本人の生活の姿勢が異なるのは当然のことだろう。そして日本では「個」の生長は阻まれ調整的な人格が形成されてきたわけだ。神と対峙し格闘する「個」ははじめから自立することはなかった。

こうした国で「安楽死」の法制化問題が検討されるとなると、無倫理で智慧哲学は問われない法廷の場でハッタリと恫喝でひたすら勝利に挑んできた司法家たちや、自由主義経済と旗印を掲げながら実は強欲と傲慢の塊の似非経済学者や事業家たち、生と死の深慮と智慧よりも混雑した医療現場の精神的負荷から逃れるための方策のみに関心のある医療者たち、医療介護費用の増嵩だけを押さえようとする強迫観念に囚われた官吏たち‥‥斯様な者たちが、政権政党の何んとない好みで法の検討委員に選出され、審議も何となく声の大きな者たちに靡き、何となく方向が決まり、何となく基準が整理され、法制化されていくのではないか‥とワタシは大いに危惧している。まさに「盪(とろ)い民」の悲惨の予感がする。(つづく)