KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

日本人は電気ウナギのようだ

 

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ローマ教皇フランシスコは2019年11月24日に被爆地長崎及び広島を訪ね、各々の場所で演説を行った。その演説内容(日本語訳)をワタシは手許にしている。この演説文を何度か読み返しながら思ったこと‥核保有国への厳しい指弾と核なき世界への崇高な理念をローマ教皇がアクティブに雄弁に語るのに比して、日本の宗教家(仏教家)は何もしないわけではないが、いつ何時でもpassiveで穴倉に籠っている冬眠の動物のようだ。決然とした意志を示さないので、手も足も出さないようにも見えてワタシの心にも響かない。それはなぜだろうとずーっと考えている。仏教家はやはり日々「面壁」「悟心」だけなのだろうか。

あの東日本大震災の直後数多の人が津波に流されて行方不明となった。津波の去った直後から家族は瓦礫の中に海岸に林の木々の間に田畑の野溝に行方不明の家族を探し続けた。それは9年が経過した現在も続いている。

津波の爪痕が深く残ったままの被災地を行脚して鎮魂のために行脚してきて、この日は雪の降りしきる釜石市の瓦礫の中を錫杖と数珠を持って遺体を捜索する一人の僧侶がいた。この盛岡市の僧侶小原宗鑑和尚は葬儀を執り行うのが僧侶の仕事とは考えていなかった。行方不明となった家族を懸命に探す者たちの哀哭とともにあって、喪われたであろう者の遺体を捜索し、喪われた者を天の楼閣に送るべく人間の生命に立ち会い続けた。小原宗鑑のように行動しながら救済して行く仏教家もいないではないが極めて稀である。

内村鑑三翁は、その著作の中で次のような問答形式の一文を書いている。「仏教」に関するもので、問答形式で少し気楽に執筆しているのが特徴だ。《 》内は質問者。

「《世人一般の評に仏教は世界の宗教中最も哲学的の者だと申しまするが貴下も爾(そ)うお考へなさいますか。》 左様さ、若し「哲学的」とは「形而上学的」を謂ふ者ならば爾うかも知れません。仏教程其教義の中に多くの逃道を供へたる宗教はありません。実に仏教は凡ての宗教を綜合した者の様に思はれます。其内に何んでもありまするのは何んにも無い事を証拠立てるかもしれません。

《然し貴下は其れが我国に為したる大なる善事を否むことは出来ますまい。》 左様、ソレは貧者と虫けらに対する憐憫を教へました。然し自由平等等の大問題に就ては全く沈黙を守りました。仏国は隠遁者を作ります、然し勇者と愛国者とを作りません。」(内村鑑三全集7、英和時事問答(10)、p.221-22) 

鑑三翁は「仏教(家)」に誠に手厳しい批評を加えている。およそ日本の「仏教」とは、鑑三翁によれば、「何でもあるというのは実は何もないことの証拠」「人間に対する憐みは教えたけれど自由平等については沈黙している」「隠遁者は輩出するが勇者と愛国者を作らない」と断じている。ワタシにもこれに対して反発する気持ちも起きるものの、鑑三翁の真意には同感だ。

そして鑑三翁はまた「日本人」についても手厳しい。鑑三翁は「浅い日本人」の表題で次のように書いている。

「日本人は浅い民である。彼等は喜ぶに浅くある、怒るに浅くある、彼等は唯我(が)を張るに強くあるのみである。忌々(いまいま)しいことは彼等が怒る時の主なる動機であって、彼等は深く静に怒ることが出来ない。まことに彼等の或者は永久に深遠に怒ることの如何に正しい神らしい事である乎(か)をさへ知らない。故に彼等の反対は恐ろしくない。彼等が怒りし時には、怒らして置けば其れで宜(よ)いのである。電気鰻(うなぎ)が其貯蓄せる電気を放散すれば、其後は無害に成るが如くに、日本人は怒る丈け怒れば、其後は平穏の人と成るのである。若し外国人が日本人の此心裡を知るに至らば、彼等は日本人を扱ふの途を知って彼等を少しも恐れなくなるであらう。‥「深遠、深遠に応ふ」と彼等(※基督教国)の詩人は歌うた(詩篇四十二篇七節)。人は何人もエホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧州にニイチェのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起った理由は茲(ここ)に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられて、其深みを以て基督教を嘲り又攻撃するのである。東洋の儒教や仏教を以てしては到底深い人間を作ることが出来ない。」(全集28、p.200)

日本人は怒ってもすぐに忘れる、電気鰻のように放電して終りだ、キリスト教国の人間は宗教によって深い人間性を育んできた、だから非キリスト者の攻撃も深く激しい、儒教や仏教では深い人間を育むことはできない、と。

華族に馬鹿の多いのは彼に担ふべきの責任が寡(すくな)いからである、‥今の日本人は何んでも責任の寡くして俸の俸給多ひ位置を欲しがる、即ち彼等は馬鹿になるに最も適したる位置を望む、そして実際馬鹿者の数が此国に於て年々増加しつゝあるは明白なる事実である、政府、会社、学校、教会孰(いず)れも馬鹿者の養成所でないのは尠(すくな)ひ。」(全集8、p.209)

日本人には「馬鹿」が多い。昔の華族にも馬鹿が多かった。イヤイヤ馬鹿な日本人の何と多いことか。馬鹿は知的に落ちた者のことではなく、強いて言えば倫理的欠如に基づく馬鹿だ。政府は勿論会社、学校、教会は多くが馬鹿者の養成機関となっている。宜なるかな

ローマ教皇が長崎と広島を訪ね、核保有国の大国が主導して核廃絶に反対するプロパガンダを展開する姿勢に警鐘を鳴らし、人類絶滅の危機を孕む核兵器は道徳的倫理的にも廃絶に向かえと指弾した言動は深く尊い。またcovid-19の惨禍が世界に広がるさ中、教皇フランシスコはバチカンの広場で雨中独り法衣のまま地面を這い神への祈りを捧げていた。その心中を思いつつワタシも祈った。