KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

「フェイク」感染症の伝播がとまらない 

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「フェイク」は「嘘」である。「でっち上げ」である。「事実」ではない。なのに喝采を受け持ち上げられている。その不気味さに耐えがたい日々が続く。

国の権力を把持し政治的に国を代表する者が、より多くの国民の政治的支持を得るのが目的で「フェイク」「事実に基づかない嘘」を発信し続けるのは常套手段だ。それは自分の失政を隠蔽し続け、前の政権の瑕疵と無責任を叩き、国民の歓心と支持を買うのが目的だ。今日日アメリカ・ロシア・日本その他の多くの国々も同様だ。こうした現象は今に始まった事柄ではない。ただ日本の首相のフェイクは手前の手の汚れを隠蔽するための手法でいじましくて矮小だが。日本の首相として7年間の在任中にアベはおよそ7000回の答弁拒否をしたという。年間1000回、どうにもあきれてモノが言えないが、これも「フェイク」の範疇と考えるべきだ。フェイクを何度も何度も発信し続ければ、新聞TVも疲れ果てて75日の罠にはまり、フェイクは事実・真実とされて独り歩きしていく。いずれも国家権力者及びそれに繋がる者たちが利得を得ることになっている。

そして国家権力者たちのフェイクは国民に感染していく。自身の身分保全のために国家権力者及びそれに繋がる権力に迎合的意見をevidenceとして公表して褒めてもらい仲間外れにならないようにしてもらおうとする者たちがいる。政権から遠く離れた場所にいる者たちの中には、自分には嘘か本当かはわからないけれど、あんなに偉い人が言うのだから嘘であるはずはない、あぁあんな嘘を堂々と言っても許されるんだとばかりに一斉にフェイクを発信する者がいる。人に隠れて誰にもわからないように孤独に苛まされる四畳半の部屋からSNSからフェイクは発信できるのだから。その結果自分自身が肥大して大きくなったという錯誤・錯覚に酔い満足する。国の権力者と心情的に「つながる」のだ。

国民の感情を強く意識する司法も同様だ。三権分立と表向きには言いながらも、人事権を時の権力者に握られているから、己も可愛いし定年後の職場確保のために権力者に迎合する結果、モリカケサクラ事案の如く犯罪性を握りつぶす、逮捕状の執行を停止する、犯罪者を匿う、判断留保したり時の国家権力者の利益(国家の利益ではない)を勘案する判断を為す。判断に「フェイク・嘘」が介在する。また現場警察官らが取り調べの過程で、自らの成功報酬のためにか厭世観のためにか人間性悪説を信奉する故にか、嘘の証拠をでっち上げ捏造し目の前の人間に自白を強要し供述証書に無理やり署名させて成立していく「冤罪」も同様の構造だ。

「わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。」(聖書伝道の書3:16) この聖書の言葉は、正しさの判断を誤るのではなく、正しいことを知っていて「不正」を為すことを言っているのだ、つまり「フェイク」「嘘」「でっち上げ」を判断基準として「裁く」ことを言っている。

 これがフェイク感染症の恐ろしさだ。「アウシュビッツはフェイクだった」「南京事件はフェイクだった」と発信し続ける者たちがどこの国でもグループ化してきた。日本でも同様である。また六甲山の阪神淡路大震災の鎮魂慰霊碑をペンキで塗りつぶす者も、沖縄の宜野湾市普天間の小学校に米軍ヘリヘリコプター部品落下ででっち上げだ・自作自演だと難癖をつけて投書メールを送る者も、オスプレイ反対デモを「非国民」だの罵声を浴びせる者も、沖縄県東村でヘリパッド移設に反対する住民に「土人」と言い放った大阪府警の機動隊員も、愉快犯のようにはしゃいでいるが、そのお手本は、今の政治権力の座にいる国を代表する政治家たちの「言葉と行動」の中に存在する。「フェイク」は連鎖しているのだ。感染していくのだ。

「なぜといって、万事がばらばらで支離滅裂なこの現代社会においては、ひとびとは物事を比較することに全然慣れていないからである。ひとびとの眼前にはただ一つの空無、すなわちヒトラーのみがいた。万事が刻々に変転するこの世界にあっては、ひとびとは少なくとも一個の空無 ― とりもなおさずヒトラー ― が、たしかに眼前に存在していることを喜んだのである。」(M.ピカート、佐野利勝訳:われわれ自身のなかのヒトラー.P.13、みすず書房、1965.)

 ヒトラードイツ国民が選択した宰相である。トランプもアメリカ国民が選んだ大統領である。矮小ではあるがアベも日本国民が選んだ首相である。"ヒトラー"はワタシたち自身(「国民」)の中に巣食うのに違いない。