KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

死刑制度の国際標準を考えよ!

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1年が過ぎた。オウム真理教教祖ら7人の死刑執行の前日2018年7月5日夜、アベ自民党総裁を囲んで自民党諸氏ら、と言ってもへつらい議員たちらが自民党の施設で大宴会を開催した。当夜の宴会写真は片山某とかいう女性議員らが”嬉々として”SNSに投稿した。死刑執行を翌日にひかえて女性の法務大臣もアベの隣に坐して親指を立てていた。法務大臣死刑命令書発出の直後の映像ということになる。死刑執行の直前に親指立ててカンパーイ…もうこの連中に対する言葉もなかった。彼らが酒に浮かれている頃、西日本地方の豪雨による住民避難が始まり深刻な被害報告が報道され始めていた。

これらの議員は当夜、アベ首相らに揉み手・迎合・諂い・平身低頭・媚び・お世辞・おべっか…の限りを尽くして、必死になって動物園のボスサルに忠誠を示していたのだ。何しろこのアベスガの内閣は、同僚だろうが政敵だろうが自民党だろうが野党だろうが、警察/公安/探偵事務所/懇ろの報道機関/広告代理店‥を動員して彼らの身辺調査を行い、恫喝資料を収集して憚らない恐怖政治を敷いているから、これら議員も哀れと言えば哀れである。いずれにせよゴミである、クソである、浅ましい、無残である。水害被災と死刑執行と。当夜人間であることの悲しみがワタシを襲った。

片山某らは何しろ必死だった。アベに褒められようとして投稿したら、その余りの破廉恥非道ぶりに非難が殺到したので直ちに削除したらしいが時すでに遅し、今でもこの写真は繰り返しSNSに登場する。

当日アベ内閣御用達NHK及び新聞社の新聞号外が不思議なほど早く出た。ワタシが購読している新聞夕刊にはオウム真理教の死刑囚のニュースに3㌢四方の活字が踊っていた。腐れ、廃れ、不浄、汚穢、荒廃…何というか、親指立ててカンパーイの投稿写真を見て、思わずゲーテの「ファウスト」の魔女達の祝宴を思った。でも魔女たちには、季節の祝宴という大義というか意味があった。だが今回のアベカタヤマたちの親指乾杯には”何もない”。魔女の宴に比較すべくもない、はるかにはるかに低劣でおぞましい光景である。

いくら裁判で極悪の人間と裁定されたとは言え、死刑は国家の手による殺人である。殺人による一人の人間の死を結果する。関係する人間たちには厳粛な態度が求められていい筈だ。過去の法務大臣の中にも、自らの信条に反するからとして、死刑命令書に署名をしなかった人間もいる。それほど厳粛な事案なのだ。法務大臣が死刑命令書に署名したことの心理的重圧を軽くするために飲酒したという弁護論も聞こえたが理由としては笑止、なぜならばそもそも法務大臣という職責には死刑命令書への署名が委ねられているからだ。

ワタシは死刑制度については若い頃からいささか学習した。ワタシは死刑制度には徹底して反対である。この国は1日で7人も同時執行する国だ。そしてこの情報を何故か民放より早く入手した公共放送局NHK拘置所からの映像を流し続けた。死刑をあたかも何かのイヴェントの如く扱いリアルタイムで報道する異様さ、異常さ。日本の報道機関も相当荒んでいるな、とワタシは感じた。報道の是非と価値を一旦引いて冷徹に吟味する思慮もなく、ひたすら視聴率という「空虚」に闇雲に迎合するところに、一体何があるというのだろう。この狂気のようなものは、政権政党内閣の恫喝に屈服する報道機関の脆弱さへとつながっていくとワタシは確信した。

EUは日本政府に対して、国家的殺人としての死刑制度の廃止を公式にアピールした。全てを隠蔽し人命を恣意的に殺戮する独裁者の支配する国ならいざ知らず、国際標準というのはEUのような考え方に基づいていることを日本政府は知るべきだ。しかし‥聞く耳を持たず思慮する心を亡くしているのが現今日本政府だ。ワタシは心底絶望の淵に立ち続けている。アベ政権下で「人権意識」もどんどんマヒしている。

辺見庸は昨年のこの日の直後ブログでこう記した。「死刑こそが国家暴力の母型である。それは戦争というスペクタクルの、最小単位の顕示である。気づくものは、つとに気づいている。戦後政治に比類ない、犯罪者集団でもあるこの政権は、なんでもできるようになった。そして、じじつ、やりたい放題である。9条覆滅から軍事・警察国家の樹立まで。人民と民主主義の名において。」(辺見庸ブログ、20180708)

ワタシも今この国で深々と密に恐ろしいことが起こっていることを知る。君ら知るや!民主主義に手錠を嵌める戦慄の暗黒の日々が既に到来していることを!