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内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

無宗教の民の不実

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あれほどの長い期間をかけて検討されたいわゆる「臓器移植法」が1997年に制定されて以後、日本人の臓器提供者は西欧に比較すれば極小で推移していることを考えてみたらいい。「臓器」の「移植」は日本人の「性分」にそぐわないのかもしれない。神から与えられた自分の身体の臓器を他の人の生命と福利のために提供することに強い抵抗感のない西欧の人たちと比較すると、日本人の身体感覚は曖昧で盪(とろ)いのだと思う。神との対峙で鍛錬されてきたキリスト教徒の国の人間との違いが臓器移植に如実に表れてはいないか。

鑑三翁の日本人観をさらに見てみたい。

「今日の日本人は実際的には無宗教の民である、寺院はあり、僧侶はあるが、是は主として死者を葬るための機関である、今の日本の宗教なる者は日本人の外的生命の一部分であって、宗教の名を附するの価値なき者である、是は政治の一種、旧き習慣の一面と見て差支(さしつかえ)のない者である。而して其結果は如何? 人に独立の意見なる者が絶えたのである、内に深き生命が無い故に人はすべての世の風潮の傀儡児と化したのである、秋の野に稲穂が風に靡(なび)くやうに今の日本人は世の輿論に全く支配せられて、自己の意見なる者は縦(よ)し有るとするも之を外に現はすの勇気なく、只偏(ひと)へに時勢に従ふを以て最上の処世術と見做すに至ったのである、其れは其の筈である、内に深き生命を湛えざる今の日本人は外の生命を除いて他に之に対抗するに足るの内の生命を持たないのである、国家と社会と親戚の外に更らに大なる、更らに力ある権威の存在を認めざる者が独創の意見を懐いて独り世に立ち得やう筈はないのである、」(内村鑑三全集21、p.468)(大正4年10月「聖書之研究」183号、山形県鶴岡市での講演録)

鑑三翁は次のように日本人の特性を見る――日本人の宗教は葬式仏教の如くで無宗教のようなものだ、だから内心に深い生命観や独創的な意見を持てず、独立した意見を持つ人間として育たず、その結果世論の風潮や時勢に従うのが処世術となっている、国家と社会と親戚のほかには力ある権威を知らない民だからだ――と厳しい。

マリ共和国出身の京都精華大学長のウスビ・サコさんがインタビューに答えて次のように日本人を見ている記事が目に留まった。

「日本人は協調性を重んじる」といった美しい日本論がある。私もそれにあこがれた部分がありますが、その協調性をひもとくと、話し合った結果の折り合いではなく「やむを得ず」の面が強い。つまり我慢することが協調性だと定義している。自分は主張しなくても分かってくれるだろうとか、あの人はこう思っているんじゃないかとか、そういう想像の上に成り立つ協調性。本音を語らない日本社会はフィクションで物事が動いてますよね。ほんまにそうなんか、相手に聞いたらいいと思う。‥一方的に注意したり怒ったりするのは余裕のなさの表れだと思う。日本は優しい社会だと思っていたけど、その優しさも世間体だった。」(200819毎日新聞)

手厳しい。日本人の"美徳"だと「美しい国日本」と無理して書いて強がりを言う輩もいるが、その実これを書く日本国宰相などの虚飾と悪徳とダーティさには目も当てられない。「世間体だけの美しいフィクション」である。鑑三翁やウスビ・サコ氏の率直な指摘に、日本人の不実をあらためて恥じ入る昨今である。(つづく)

盪(とろ)い日本人

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そこへいくと日本人はどうだろう。どこにでも山から水は流れ作物は豊かに実り、自然環境は豊かで四季があり、山川草木の恩恵にあずかることが出来た幸福な民族である。自然の中の木々や山や岩に宿る八百万の神が信仰の対象となってきた。いつでもどこでも安直に神様は祈りを聞いてくれていた。外国との戦争もほとんどなく平穏で戦いへの備えも不要で、自ずから近隣住民との共同生活でも徹底した議論の末に決着をつけるのではなく、隣人と”何となく”物事を収め、”何となく”嫁に行き、”何となく”政治も行われてきた。日本の忖度生活、忖度政治である。日本人の盪(とろ)い生活がここにある。

一方キリスト教発祥の国々では、砂漠と岩山が国土の大半を占め人々は厳しい自然環境の下で生活してきた。水も容易に手に入らない。干ばつによる飢饉が定期的に来る。干ばつで家畜も死に絶える。戦いは頻繁で何時も戦いへの備えは必須であった。戦いは勝利すれば戦利品や奴隷は豊富に入手でき、敗北すれば村民全員が殺戮され滅亡した。常に戦いに挑み戦いの勝利のために神に祈った。神は祈りによって必ず勝利をもたらしてくれるとは限らなかった。戦いの敗北では神は人間たちの深い内省を促した。戦いの勝利の喜悦は神によって豊かに保証された。神は人間と対峙し人間は常に神への祈りの中で神の予言と厳格な命令を待った。聖書詩篇では雪は羊の毛、霜は灰、氷はパンくずと表現されている。日本ではいずれも和歌俳句の世界ではこれらは美しい自然の象徴として季語として表現されてきた。

人格をもった一神との対峙の中で生きてきたキリスト教国の人間たちと、湿度のある自然と八百万の神がどこにでも居る日本人の生活の姿勢が異なるのは当然のことだろう。そして日本では「個」の生長は阻まれ調整的な人格が形成されてきたわけだ。神と対峙し格闘する「個」ははじめから自立することはなかった。

こうした国で「安楽死」の法制化問題が検討されるとなると、無倫理で智慧哲学は問われない法廷の場でハッタリと恫喝でひたすら勝利に挑んできた司法家たちや、自由主義経済と旗印を掲げながら実は強欲と傲慢の塊の似非経済学者や事業家たち、生と死の深慮と智慧よりも混雑した医療現場の精神的負荷から逃れるための方策のみに関心のある医療者たち、医療介護費用の増嵩だけを押さえようとする強迫観念に囚われた官吏たち‥‥斯様な者たちが、政権政党の何んとない好みで法の検討委員に選出され、審議も何となく声の大きな者たちに靡き、何となく方向が決まり、何となく基準が整理され、法制化されていくのではないか‥とワタシは大いに危惧している。まさに「盪(とろ)い民」の悲惨の予感がする。(つづく)

深遠が深遠に応える

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人間の生死は未来に向けての航海のようなものだ。停泊地は定まってはいないのに無理に停泊地を選択せよと迫るのが「安楽死」の法制化である。人生には愉しみが限りなくあるし哀しみ苦しみも限りなくあるけれども、法律によってこれらがすべて規制され選択肢がきめられるという人生は、限りなく詰まらない、とワタシは思う。

物事には正邪を判定することが困難で不可能なこともある。法制化に馴染まない繊細極まりない生死の問題もある。繊細さはそのままにしておいた方がいい場合もある。法制化によって人間にとっての生死の繊細さが捨象されるため、問題が先鋭化され白黒に決着することを強制強要されることもある。なので「安楽死」の法制化がこの国で必要だとはワタシは全く考えない。

内村鑑三翁の言に耳を傾けてみる。

「日本人は浅い民である。彼等は喜ぶに浅くある、怒るに浅くある、彼等は唯我(が)を張るに強くあるのみである。忌々(いまいま)しいことは彼等が怒る時の主なる動機であって、彼等は深く静に怒ることが出来ない。まことに彼等の或者は永久に深遠に怒ることの如何に正しい神らしい事である乎(か)をさへ知らない。故に彼等の反対は恐ろしくない。彼等が怒りし時には、怒らして置けば其れで宜(よ)いのである。電気鰻(うなぎ)が其貯蓄せる電気を放散すれば、其後は無害に成るが如くに、日本人は怒る丈け怒れば、其後は平穏の人と成るのである。若し外国人が日本人の此心裡を知るに至らば、彼等は日本人を扱ふの途を知って彼等を少しも恐れなくなるであらう。…「深遠、深遠に応ふ」と彼等(※基督教国)の詩人は歌うた(詩篇四十二篇七節)。人は何人もエホバの神に深くして戴くまでは浅い民である。欧州にニイチェのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起った理由は茲(ここ)に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられて、其深みを以て基督教を嘲り又攻撃するのである。東洋の儒教や仏教を以てしては到底深い人間を作ることが出来ない。」(内村鑑三全集28、p.200)

日本人は怒ってもすぐに忘れる、電気鰻のように放電して終りだ、キリスト教国の人間は宗教によって深い人間性を育んできた、儒教や仏教では深い人間を育むことはできない、と。鑑三翁が「深遠、深遠に応ふ」(明治訳聖書)としている部分は、口語訳聖書(1963)では「あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ」(詩篇42:7)とある。鑑三翁の大意は「なぜわたしを捨てられたのですか」(43:2)と神に嘆き、「おまえの神はどこにいるのか」(42:10)と人から嘲られ、「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえにわたしのうちに思いみだれるのか」(42:5)と自問を繰り返すのがキリスト教国の信仰に生きる者の生活態度・習慣であった。こうした神との心の往還の中で、罪の自覚と神との闘いが日々行われてきた人たちは、信仰の深さにおいて鍛錬されてきたことになる。それが「深遠、深遠に応ふ」という表現になったものだろう。神との”深い”やりとりは、自らの苦悶にもなった。この”深さ”があってはじめてニーチェのような大柄の哲学者が出たのも故無きことではない、と鑑三翁は記すのだ。(つづく)

「安楽死」を弄ぶな‥

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ALSの患者さんが主治医でもない二人の医師に”安楽死”を依頼して実行した。二人の医師はその後逮捕された。2020年7月のことである。この患者さんはSNSで一人の医師と出遭い、この医師につながるもう一人の医師とタッグを組んで実行したようだ。

過去の判例(名古屋高裁)に「安楽死」許容6要件というものがある。それは①不治の病、②(死苦の)苦痛、③死期が近い、④本人の明示の意思表示(同意)、⑤医師の手による、⑥方法の妥当性―である。

安楽死」には患者、本人の自発的意思(死にたい)に応じて患者を故意に死に至らせる「積極的安楽死」と、患者本人が意思表示不可能な場合は親・子・配偶者などの自発的意思に基づく要求に応じ、延命治療を継続せずまたは治療を中断・終了することにより、結果として死に至らせる「消極的安楽死」がある。親族らの同意のない消極的安楽死は、治療義務のある医師の不作為による殺人罪(刑法第199条)であり、殺人幇助罪・承諾殺人罪(刑法第202条)ではない。刑法では「積極的安楽死」は認められておらず、もしこれを行った場合には殺人罪(第199条)の対象となる。また治療行為中止(尊厳死)の要件について、川崎協同病院の筋弛緩剤事件(東京高裁判決2007年2月)では、「尊厳死」を規定する法律がない中、終末期医療の現場を裁く難しさを示したものとして記憶に残る。これらの判例や裁判所の判断を鑑みたときに今回事案は適切であったかどうか‥。

さらにこの事案を主導した医師がかつてツイッターの投票機能を使って「安楽死」の”対価”を公募したところ、三千件の応募があり具体的には「百万円」の声が多かったという記事を読んで、ワタシは慄然とした。これら回答者には「死」は他人事なのだろう。

この事案が報道されると、維新という政党のM某が「国会で議論しよう」と呼び掛けている。この男は露出好きで自己顕示欲が肥大した人物らしいが、このタイミングで議論を呼び掛けるという所業の裏には、彼はいわゆる「優生思想」の持ち主だとの指摘がtwitterで流れている。もしこのことが事実だとすればM某の政治屋としての下劣な卑しい意図が透けて見える。

ナチスドイツのヒトラー政権下では、「優生思想」のもとにユダヤ人などは人類や国家の進歩にとって妨げとなるとの不条理な理由が付されて法制化・政策化され、数百万人ともいわれる人たちが抹殺された。往時のドイツ国民の多くは賛意を示し政策を支持した、あるいは支持せざるを得なかった。アルコール依存症患者や精神障がい者や寝たきりの衰弱した高齢者たちもガス室などで殺戮された。

しかしこの「優生法」に関しては、多くの欧米諸国によっても採用されていたことを見逃してはならない。しかも1970~80年代にまで医学的にも正当化されて、何らかの形で(強制断種や不妊手術、堕胎など)行われてきた。日本でも旧優生保護法(1948~96年)下で障がい者らに不妊手術が行われてきた事実がある。そしてこの法令下で堕胎や断種を強制された人たちに対する国による謝罪が表明され、補償が行われることになったことは記憶に新しい。この問題は現在進行形である。日本医学連合会では旧法検証のための検討会が持たれ2020年6月に報告書を公表した。報告書では将来に対する提言として、出生前診断やゲノム編集など遺伝子治療の分野で非倫理的な方向に進まないための多方面からの精細な検討が必要だと提言している。

先述のM某は「難しい問題‥」とtwitterで述べているが、彼は大声で叫び注目を惹き目立つことで「オレがこの問題を提起し発議した」と認めさせるだけで目的を達するのだろうが、いやしくも政治に係る人間としては、「安楽死」「尊厳死」「優生法」「法制化」の問題に関しては、胸に手を当てて黙考し、生命倫理の研究者の論文を熟読し、患者や家族の声に耳を傾けてから出直して来いと言いたい。実は既に日本では超党派の「安楽死」法制化のための議連がある。彼らがこうしたタイミングで動き出す気配をワタシは強く感じている。M某は遠回しにこの議連のメッセンジャーとしての役割を担わされているのかもしれない。

人間の死は人生の終わりの「とき」なので一人ひとりの重さがある。この死の重さが計量カップのA、B、C‥‥で計られて分類されて軽々しく安っぽく扱われていくのは、ワタシには耐え難い。(この項つづく)

またそのハナシですか‥   

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またそのハナシですか…老者はなぜ同じことを繰り返し話すのだろう。こう言うワタシもそのうちの一人だと自認している。いつも嫁さんに「また同じ話をして、その話は何度も聞いたわよ」と言われている。実はこのことは気づいてはいるのだが話題が少ないので「また同じ話」をしているときもある。しかし気づかずに何度も話をすることがあることも事実だ。TVは詰まらないのでほとんど見ないが、稀に興味を引く番組があるし息子が制作に関係している番組もあるので時折見ることがある。しばらく見ていて番組の終わりになる頃になって「この番組は以前にみたことがあるな」と気づく。デジャヴの感覚だ。コロナの影響でTV番組も再放送再々放送が多くなっているので気をつけているが、気づかないでまた見る。しかも再放送なのにその都度面白いと感じ感動したり大笑いする。認知症の始まりにこれらの症状が現れると言われている。

著名な一人の医師が亡くなった。あまりオモテには出ない話だが、この医師は病院の会議でも・数多の講演会でも・著書の中でも、診療経験や日常生活経験の同じ話を、何度も何度も繰り返していた。またまたそのハナシですか‥‥知る人ぞ知る。

そりゃ中身はいい話なのだろうけれど、それをどこでもかしこでも繰り返すのはいかがなものか。あるときの彼の講演会で、既に彼の著書を読み講演も聞いていたワタシは、又同じ話を繰り返し話していたので、不愉快になって講演会から帰ったことがある。でも彼の話し方は上手い。いわばTV向きでタレント風だ。ただし話をするご本人は「良い話なのだから何度でも話すべき」と信じて疑っていないからややこしい。著名な人だから周囲も口をつぐむ。

この医師のように老者は「大切で大事な本質的(!)な」事柄を「人間を知らない(若い)人たちに」語って聞かせたいのだ、それが「世のため人のため」になると信じ込んでいる。そのように彼の脳の回路が出来上がってしまっている。講演を聞いた周囲の者たちも「先生のお話とてもよかったです!。録音もさせていただきました。職場に帰ったら周囲の者たちにも聞かせます。もっと広く先生のお話を聞いてほしいですね。」とかなんとか大先生にオベンチャラを言う。(職場の皆に話を伝える約束など講演会の帰りの電車の中ですぐ忘れてしまうのだが。)

だから大先生は”そうか、それならば次の講演会でもまたあの話をしよう”と勇んでしまう。こうして大先生のお話は金太郎飴風となる。大先生は悪い人ではない、好々爺で善人なのだ。

だが同じ話を何度も聞かされる方はたまったものじゃない。ワタシはこの大先生も認知症の初期かなと感じていた。でも周囲の者はそれを言えなかったのだろう。認知症とはそんな病気なのだ。だが他人事ではないから少し哀しい。(この項・おわり)

 

老者叛逆す!

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ワタシは「優性思想」「安楽死」「尊厳死」「法制化」と書いたが、時間軸としてはそれほど遠くはない時点で、老者の生死はこのような”思想”に左右されるときが来ると危惧している。

近い将来こんな社会がいずれ到来するだろう‥‥老者は昼間歩くのを禁じられ交通機関の利用時間を制限される、冷暖房付きの図書館や公民館の利用は限定される、認知症患者は医療機関に出入禁止され無言の圧力で安楽死の選択を強要される、ナチスのT4作戦のように触法認知症患者は劣悪な環境の収容所に送られて食事も与えられず放置されて死を迎える……こんなおどろおどろしい社会が現実のものとならないと誰が言えるのか。今の日本や世界のように不寛容が進行する社会から展望すると陰陰滅滅のイメージしかわいてこない。「人権」といった20世紀になって発見された人間(老者)の生存権利など、将来にわたって望むべくもない社会になっているのではないか。今次日本国の共謀罪の施行などはそのことを予感させる。老者にとってはいずれにしても生をないがしろにされる社会が進行していくのではないかという予感がワタシには強くある。

 

《であるならば》 とワタシは貧しいアタマで考え続けている。それは老者が老者だけの社会を作っていくことで”元気溌剌の社会”に叛逆するのだ。時間的空間的に老者社会を切り離すのだ。老者社会は一般社会の全てのシガラミから解放されているのは当然だ。

井上ひさし吉里吉里人』(新潮社、1981)は、東北地方のある村が日本国政府に愛想を尽かし「吉里吉里国」の独立宣言をする話だ。国の政府は全力でこれを防ごうとするが、吉里吉里国では村民そろって食料の自給自足生活や通貨廃止等によって政府に反抗するのだ。この『吉里吉里人』や『蕨野行』に倣って「役立たずになった」老者たちの孤島への隔離(移住)はどうだ。今様の流刑か!

その代わりこの老者社会では、全て自活しなければならないから日常生活は厳しいぞ。身体が健康であれば何も言うことはない。米麦ソバ酒は皆で作る(元農業酒蔵)、PCスマホ携帯はない、畑仕事と海釣りや川釣りは趣味にはならず日々の生活の糧だ(元農業漁師)、木を切り倒して住居は皆で建てる(元大工)、綿花と蚕を飼って衣服とする、火起こしは日課、性は自由(但し相手はジイサン・バアサン、避妊具は不要)、石や野草から生薬を作る(元医者や薬剤師)‥。でも意外とこのムラでの老者の平均余命は一般社会より長かったりするかもしれない。そしてここで生活する老者たちは、意外と「幸福」感に充たされているのではないか。ひょっとすると今の日本で過疎地域限界集落と言われる村落などでは既にこのような社会生活が営まれていると思われる。蕨野行現代版は遠くにあるわけでもない。

この国を「おいおい(老い老い)国」と名付けよう。ここでは不倫やら盗みやら嫉妬妬みやらもあるだろうから、長老が大岡裁きを行うこともあるだろう。長老に軽い認知症があってもいいじゃないか。但し長老も大岡裁きも女性(バアサン)が役割を担う。男(ジイサン)は先述のように小心で嫉妬深く闘いを好み自立していないから長老や大岡裁きには向かない。原始から女性は戦いを避け自立していたし「おいおい国」でも女性の完成された十全さの能力を発揮してもらおう。ジイサンは小さくなっていることが望ましい。その根拠だって?聞かれれば答えるよ‥「完全性は男性の望むことであり、それに対して女性は本質的に十全性を求める傾向がある。‥完全なものからは何も生まれない。‥不完全性は本来の改善の芽を内に含んでいる。」これはC.G.ユングが『ヨブへの答え』の中で記している。つまり男は何をやってもダメだということさ。しかしながら「おいおい国」では不倫も盗みも喧嘩も嫉妬も何もかも放置が原則だ。

吉里吉里国』では日本政府に楯突いて憲法や法律、通貨まで変えて抵抗しようとした。ところが「おいおい国」では、憲法以下法律規則条例通知‥そのような人間を縛るような下らないものは一切制定しない。そもそも法律以下の云々によって人間は自由を捨ててきた歴史がある。今の人間社会を見てみろ、人間は法律云々‥にがんじがらめにされて全身を拘縮されながらチマチマと生きて一生を終えていくじゃないか、こんな非人間性をもたらす定めなど「おいおい国」には存在しない。いずれ近いうちに老者一人ひとりの生命は閉じられるのだから。自由及びいい加減が全ての価値の根本原則となる。

危険なのは経済活動だ。トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、2017.この本は難しかったな。ワタシはすべてを咀嚼していないのだが)で指摘されているように、資本主義の宿命は富の寡占によるグリード(強欲)・格差の出現ということだ。だから資本主義への傾斜を止める必要がある、つまり労働価値や交換価値は考慮の埒外とし、日々の糧を物々交換して完結するだけの社会だ。

でも遺伝学者や生殖医療にたけた老者がいて90歳のバアサンに赤ちゃんが生まれたりしたらどうしよう。新たに産業革命が進展して、海を隔てた一般社会とのビジネスを始めようと提案する元商社マンが出てくるかもしれない。そうしたら元も子もないということになるのか。でもこんな妄想も悪くはない。

老者の万引き考

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『蕨野行』では若い人たちで構成される社会から老者は放逐される。その村での役割は終えたし老者が社会的に機能する場は失われている。農作業する体力も失われたし「ボケ」(日本では放送禁止用語!)てきたし、歩行など日常生活動作も覚束なくなってきて家族の負荷になってくる。家族の単なる「穀潰し」(これも放送禁止用語!)となり放逐されるのだ。しかしながら、その実背景にあるのは飢饉であり領主の苛酷な年貢取立てのゆえの絶対的貧困なのだが。

しかし、しかし、老者たちは生きているし生きていかなければならない。家族にとっては放逐を喜ぶ者はいるし社会規範だからと諦める者がほとんどなのだが、中には老者を家族にとってかけがえのない人間として愛着を抱き老者を放逐することに反意を抱く家族もいるじゃないか‥この小説の著者は決まりきった社会規範や因習に実は同意してはいない。

似たような作品として『楢山節孝』(深沢七郎)がある。これは老いた(小説では70歳)母親を息子が村の因習に従って山中に放置しにいく物語で、母親を敬愛する心優しい息子とその妻が、母との不条理な別離と因習の非情への耐えきれない心情と心の反抗が描かれる。

老者は社会から放逐され親子家族の別離の哀切を描いている点ではこれら二つの小説は同じだが、『蕨野行』では放逐された老者たちのその後の人生が描かれる。つまり老者たちは収穫し争い恋慕し性行為を行い嫉妬し病気になり政治し埋葬し死を体験していく。つまり再び「蕨野社会」を形成しその中で生活していくのだ。小説には”役立たず”になった老者の生の実存が哀しくも情愛豊かにユーモラスに描かれる。”老者賛歌’“でもある。

知人のスウェーデン人から、老者を(若者中心の)社会から排除する因習は近代以前にスウェーデンにもあったと聞いた。かの国では太い棍棒で老者たちを撲殺したのだという。近年遺跡からその棍棒が出土したらしい。さすがバイキングの国、やることが大振りで荒っぽい。

今日日高齢者(65歳以上)の犯罪率は1989年には2%だったものが2019年では22%、検挙された事件のおよそ半数が万引きで、その背景には「貧困」があるという。老者の孤独な生活に「貧困」が追い打ちをかけている今の日本。わが日本にも安楽死法制定の動きがある。この動きも「貧困」と深くつながるのではないか。

しかしこの「貧困」は、トマ・ピケティが指摘するような経済的な富が限られた者たちに独占された結果の「貧困」であり、国家の意思による富の再分配を可能としているから”作られた「貧困」”である。その意味では「万引き現象」は「国家の”思想的”貧困」でもある。

『蕨野行』という作品を手掛かりとして、ワタシは現代日本の老者と「貧困」「万引き」「国家の思想的貧困」「安楽死法案」とのつながりを考えている。 (つづく)