KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

老者叛逆す!

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ワタシは「優性思想」「安楽死」「尊厳死」「法制化」と書いたが、時間軸としてはそれほど遠くはない時点で、老者の生死はこのような”思想”に左右されるときが来ると危惧している。

近い将来こんな社会がいずれ到来するだろう‥‥老者は昼間歩くのを禁じられ交通機関の利用時間を制限される、冷暖房付きの図書館や公民館の利用は限定される、認知症患者は医療機関に出入禁止され無言の圧力で安楽死の選択を強要される、ナチスのT4作戦のように触法認知症患者は劣悪な環境の収容所に送られて食事も与えられず放置されて死を迎える……こんなおどろおどろしい社会が現実のものとならないと誰が言えるのか。今の日本や世界のように不寛容が進行する社会から展望すると陰陰滅滅のイメージしかわいてこない。「人権」といった20世紀になって発見された人間(老者)の生存権利など、将来にわたって望むべくもない社会になっているのではないか。今次日本国の共謀罪の施行などはそのことを予感させる。老者にとってはいずれにしても生をないがしろにされる社会が進行していくのではないかという予感がワタシには強くある。

 

《であるならば》 とワタシは貧しいアタマで考え続けている。それは老者が老者だけの社会を作っていくことで”元気溌剌の社会”に叛逆するのだ。時間的空間的に老者社会を切り離すのだ。老者社会は一般社会の全てのシガラミから解放されているのは当然だ。

井上ひさし吉里吉里人』(新潮社、1981)は、東北地方のある村が日本国政府に愛想を尽かし「吉里吉里国」の独立宣言をする話だ。国の政府は全力でこれを防ごうとするが、吉里吉里国では村民そろって食料の自給自足生活や通貨廃止等によって政府に反抗するのだ。この『吉里吉里人』や『蕨野行』に倣って「役立たずになった」老者たちの孤島への隔離(移住)はどうだ。今様の流刑か!

その代わりこの老者社会では、全て自活しなければならないから日常生活は厳しいぞ。身体が健康であれば何も言うことはない。米麦ソバ酒は皆で作る(元農業酒蔵)、PCスマホ携帯はない、畑仕事と海釣りや川釣りは趣味にはならず日々の生活の糧だ(元農業漁師)、木を切り倒して住居は皆で建てる(元大工)、綿花と蚕を飼って衣服とする、火起こしは日課、性は自由(但し相手はジイサン・バアサン、避妊具は不要)、石や野草から生薬を作る(元医者や薬剤師)‥。でも意外とこのムラでの老者の平均余命は一般社会より長かったりするかもしれない。そしてここで生活する老者たちは、意外と「幸福」感に充たされているのではないか。ひょっとすると今の日本で過疎地域限界集落と言われる村落などでは既にこのような社会生活が営まれていると思われる。蕨野行現代版は遠くにあるわけでもない。

この国を「おいおい(老い老い)国」と名付けよう。ここでは不倫やら盗みやら嫉妬妬みやらもあるだろうから、長老が大岡裁きを行うこともあるだろう。長老に軽い認知症があってもいいじゃないか。但し長老も大岡裁きも女性(バアサン)が役割を担う。男(ジイサン)は先述のように小心で嫉妬深く闘いを好み自立していないから長老や大岡裁きには向かない。原始から女性は戦いを避け自立していたし「おいおい国」でも女性の完成された十全さの能力を発揮してもらおう。ジイサンは小さくなっていることが望ましい。その根拠だって?聞かれれば答えるよ‥「完全性は男性の望むことであり、それに対して女性は本質的に十全性を求める傾向がある。‥完全なものからは何も生まれない。‥不完全性は本来の改善の芽を内に含んでいる。」これはC.G.ユングが『ヨブへの答え』の中で記している。つまり男は何をやってもダメだということさ。しかしながら「おいおい国」では不倫も盗みも喧嘩も嫉妬も何もかも放置が原則だ。

吉里吉里国』では日本政府に楯突いて憲法や法律、通貨まで変えて抵抗しようとした。ところが「おいおい国」では、憲法以下法律規則条例通知‥そのような人間を縛るような下らないものは一切制定しない。そもそも法律以下の云々によって人間は自由を捨ててきた歴史がある。今の人間社会を見てみろ、人間は法律云々‥にがんじがらめにされて全身を拘縮されながらチマチマと生きて一生を終えていくじゃないか、こんな非人間性をもたらす定めなど「おいおい国」には存在しない。いずれ近いうちに老者一人ひとりの生命は閉じられるのだから。自由及びいい加減が全ての価値の根本原則となる。

危険なのは経済活動だ。トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、2017.この本は難しかったな。ワタシはすべてを咀嚼していないのだが)で指摘されているように、資本主義の宿命は富の寡占によるグリード(強欲)・格差の出現ということだ。だから資本主義への傾斜を止める必要がある、つまり労働価値や交換価値は考慮の埒外とし、日々の糧を物々交換して完結するだけの社会だ。

でも遺伝学者や生殖医療にたけた老者がいて90歳のバアサンに赤ちゃんが生まれたりしたらどうしよう。新たに産業革命が進展して、海を隔てた一般社会とのビジネスを始めようと提案する元商社マンが出てくるかもしれない。そうしたら元も子もないということになるのか。でもこんな妄想も悪くはない。