KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

空無の愚王を生む社会 

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M.ピカートは1888年スイス生まれの医師にして20世紀を代表する思想家。日本でも『沈黙の世界』『神よりの逃走』、そしてここで取り上げた『われわれ自身のなかのヒトラー』(いずれもみすず書房刊)などの翻訳書がある。ワタシはピカートの鋭い分析力と公正な判断力に感銘を受け学生時代に熟読したものだ。その中の一文である。

「現代のデモクラシーのなかでは、権力者の座にすわり独裁制を確立することのできる人間は笊(ざる)ですくうほどある、‥しかし、そのようなことがおよそ可能なのは、ただ、現代社会では誰もが無目的にどんなところへでもつるつると滑ってゆくからなのだ。かくて誰かがたまたま国家権力へと滑り寄る。‥当人自身は別に権力手段の獲得を目指して努力する必要もないし、闘争をする必要もない。権力手段は手当りばったりに抱きつかれるだけのことである。‥したがって、ヒトラーは征服をあえてする必要はすこしもなかった。‥すでに権力を手中におさめた今になって、彼は権力者につきもののあらゆる身振りを真似てわめきちらし、彼が独裁者となり得たのはおのが行為によってであって、決して錯乱状態のもたらした偶然によってではないことを証明しようとして、暴虐や殺人に憂身(うきみ)をやつすのである。‥ただ現代の全面的非連続性の世界においてのみ、ヒトラーのごとき無価値な人物が指導者(フューラー)となり得たのである。」(M.ピカート、佐野利勝訳:われわれ自身のなかのヒトラー.p.11-13、みすず書房、1965)

ピカートの洞察に従ってニッポンの現実について記す。今日日「ザルですくわれた」Aは、無目的にすべる数多の人間が集合して「たまたま」総理総裁に祭り上げたにすぎない。(別の言い方をすればニッポン人の個性でもある「なんとなく」である。)  Aを支えてきた自民党の派閥長老たちの右往左往も「たまたま」である。そしてザルですくわれたAは国家権力に「たまたま」滑り寄り、権力手段に抱きつかれて無自覚に総理総裁となったということだ。詮ずるところ現代の”全面的非連続性の世界”では「深いもっともらしい理由」がない。そしてAは8年近くも長期に玉座に居座り続けた結果、A及び閣僚総員以下政務官官僚まで全てがパンツのゴム紐同様に弛緩した。Aは国会も数か月開かないという憲法違反を犯し、モリカケサクラクロカワ等不祥事の解明を求める市民国民の矢玉を浴び続け、ストレスに打ちのめされて政権を「詐病」理由に放り投げた。実のところAは「疲れて悔い改めるいとまもなく、しえたげに、しえたげを積み重ね、偽りに偽りを積み重ね」(聖書エレミヤ書9) た結果の辞任である。

そうしたら何とスガ官房長官がこの後を受け継ぐと言ってあのスダレ顔でノコノコと出てきたので、その恥知らずの厚顔に驚愕。官房機密費という使途不明金をふんだんに使い、密偵を放って得た情報をネタに新聞TV通信社マスコミ幹部や記者、政敵、タレントを恫喝し続けたら、周囲に文句を言う輩がいなくなった‥そこで何と官房長官がタナボタで「たまたま」玉座を狙いに来た、という背筋も震えるような奸佞(かんねい)者の出現だ。

ピカート氏の一文を書き換えて「ただ現代の全面的非連続性の世界においてのみ、アベスガアソウのごとき無価値な人物が指導者(フューラー)となり得たのである。」と言い切るのは、ピカート先生にあまりに失礼。なぜならば「指導者(フューラー)」と器量極小のAらを称するのは大いに憚られるからだ。

「このような連続性喪失の世界において、一個の空無、もしくは一個の低劣なもの、もしくは一個の凡庸なるものが絶対者の地位におしあげられ」(同書、p.13)てきたことは事実である。空無で低劣で凡庸な者が権力の座に就くことは古くからあったことだ。ワタシも愛読する旧約聖書「列王紀」「歴代志」などにはおびただしいほどの愚王が出場する。

ただし「連続性喪失」という現代を象徴する現実が、SNSや生活の中でのIT化やコロナ禍の生活変化によって「加速」され「増幅」されている。その結果より低劣で凡庸な「愚王」が繰り返し出現してくるのではないかとワタシは危惧する。今の日本がその通りになっている。そして今後、市民国民の自由と権利を守るための政治装置が微塵に破壊され、ヒトラーのごとき無価値な人物が指導者として出現し、狂気の圧政と暴虐が出現するのではないだろうか。

今私は香港にもその現実を見ている。暗澹たる気持ちになる。