KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

認知症‥スティグマによる疎外

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「私は精神科医になってからずっと「分裂病(注:現在では統合失調症)を追い続けてきた。それは「社会への入口」の病いである。社会に参加しようとして参加できず、やがて「病い」へと追い込まれる。「老いの病い」は、社会からの出口の病いである。そしてこの両者はともに社会から排除されて棄てられてゆく過程がおどろくほどよく似ている。いつしか私の中でこの二つは一つになっていた。」(浜田晋:前掲書、p.11)

浜田医師は統合失調症の患者と認知症の患者が、社会から排除され捨てられていく過程が似ていると指摘している。つまりこれらの病気をわずらっている患者に対するスティグマの拡散と固定化のプロセスが同じ軌跡をたどっていると言うのだ。

スティグマ」とは、言葉本来の意味は「聖痕」といってイエス・キリスト磔刑となった際についたとされる傷のこと。カトリックでは奇跡の顕現とみなされている。日本語では「烙印」と訳されている。身体や精神等の障がいによって「スティグマ」を押される結果、社会的な参加が拒否されたり疎外されたりする事象を指す。この「スティグマ」は実は専門家や行政官やその関係者によって”固定化”されて一般の人に拡散していくことが、P.スピッカーやG.クロセティなどの著作によって指摘されてきた。言い方を変えれば「スティグマ」は忍び足で作られて行き、その後人間の意識に接着剤の如くガッチリ固定化され定着していくわけだ。

先述の篠崎英夫医師は、そのような私たちの心の裡なるスティグマや制度的なスティグマが固定化していくことに警鐘を鳴らし、「認知症」患者に対してもこのようなスティグマが固定化していく気配を感じていると指摘する(篠崎英夫:前掲書、p.193)

二人の医師の指摘は、共にワタシの中で共鳴し合っている。そして浜田医師も篠崎医師も、これからの社会の中でも、精神障がい者認知症患者に対するスティグマや偏見がなくなるという”甘い期待”は抱いていないのではないか。ワタシはそう思う。

「世界は果して進歩しつつある乎(か)」とは明治大正昭和の言論人基督者内村鑑三翁の言葉だ。鑑三翁は人類社会の進歩などというものは実は無いのだ、と断じる。今日日どこの国であれ政治家や自由主義経済人たちは、人間社会の"進歩発展"は永遠に続くことを自明の理のごとくに喧伝する。富の寡占を競い、速さを狂気のごとく追い、ビルの高さをオレがオレがと争い、IT社会の効率を果てしなく追いかけている。しかしながら彼らの喧伝する”進歩発展”は、所詮人間の”欲望”を加速させ、”強欲”と”傲慢”とを増幅させているだけではないか。人間社会の名目上の”進歩発展”が加速することと"反比例"しながら、良質の人間性の柔らかい部分は次第に痩せこけて貧相になり、スティグマや偏見が現代社会ではどんどん増幅している事実を見よ。これは認知症患者が社会から排除され捨てられていく過程でもある。今の日本を観察すればよくわかることだ。