KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

不起立は後世への最大遺物 

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この君が代最高裁判決を知って、ワタシは明治の気骨の言論人・内村鑑三翁の不敬事件を思い起こした。

鑑三翁は明治24(1891)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって批難された。この間マスコミは既に名の知られていた鑑三翁を指弾した論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。基督教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返したのだった。いずれも全ては”お上”への恭順を示す迎合だった。

こうしたこともあって鑑三翁の妻・かずは体調を崩し病いを得て同年死去した。この妻の死は、鑑三翁にとって人生最大ともいえる深刻な危機となった。このことは明治26年に発行された『基督信徒の慰』の中に「愛するものゝ失せし時」として記されており、「余は余の愛するものゝ失せしより数月間祈祷を廃したり」と信仰上の危機までもが表白されている。

後年、鑑三翁はこの不敬事件について次のように記している(明治42年10月)。「余は高等学校の倫理講堂に於て其頃発布せられし教育勅語に向って礼拝的低頭を為せよと、時の校長代理理学博士某に命ぜられた、然るにカーライルとコロムウェルとに心魂を奪はれし其当時の余は如何にしても余の良心の許可を得て此命令に服従することが出来なかった、余は彼等の勧奨に由て断然之を拒んだ、而して其れがために余の頭上に落来りし雷電(いかづち)、‥国賊、不忠‥脅嚇(きょうかく)と怒喝‥其結果として余の忠実なる妻は病んで死し、余は数年間余の愛する此日本国に於て枕するに所なきに至った、余の肉体の健康は夫れがために永久に毀損せられ、余の愛国心は甚大の打撃を被(こうむ)りて余は再たび旧時の熱心を以て余の故国を愛する能はざるに至った、‥然し余は今に至り此事のありしを悲まない、余は確かに信ずる、余の神が其時特に余に命じて『コロムウェル伝』<注・トーマス・カーライル(1795-1881)(英国の歴史家)>を購はしめ給ひしを、若し此伝記と此伝記が余に起しゝ此事件なかりしならば余の生涯は平々凡々取るに足りない者であったらふ」(内村鑑三全集16、読書余禄(カーライル著「コロムウェル伝」)、p.509-10、岩波書店、1982)

たかが本であるが、されど一冊の本。たった一冊の本が人間の人生を大きく左右することがある。特に若い時代の一冊の本にそのことが言える。鑑三翁の場合『コロムウェル伝』の神髄が彼を打つことで、天皇真筆の奉拝といった愚にもつかぬ行為を強制されることへの反抗・反発となって表現されたのである。人間として誠実にして真摯、イエスキリストへの信仰を第一義とする鑑三翁の気骨、信仰深きが故の自由人の為せる行動であったのだろう。老年の鑑三翁であったなら、この不敬事件なるものは起らなかったかもしれない‥老年になった鑑三翁はそのように記している。

ワタシは鑑三翁のいわゆる不敬事件と今次の教員たちの君が代不起立事件とは同質の問題を孕むものと考えている。都立高校の教員たちの訴えは、最高裁では敗訴したとは言え、地裁・高裁では勝訴しているのだ。だがワタシはそのような裁判所の判定などよりも、長年にわたる生活の苦難とも闘う結果となった教員たちの、「人間としての誠実、真摯、後世への最大遺物としての不起立を実践した」気骨に敬意を表している。鑑三翁に対する敬意と同様に。

因みに鑑三翁は『後世への最大遺物』(岩波文庫)の中で、どんな人間でも後世に遺すことのできるものは「勇ましい高尚なる生涯である」と記す。

私事、ワタシは高等学校時代(1960-63)、社会科の教師であった小沢三郎先生から一冊の本をいただいた。『内村鑑三不敬事件』(小沢三郎:新教出版社、1961)である。小沢先生が授業の中で内村鑑三に触れた際、ワタシが鑑三翁のことを何度も質問したことが契機となって、小沢先生からいただいた著書である。この本の読後感を求められて、数日後教員室で読後感を述べたことが記憶に残っている。ワタシはそれまで小沢先生が内村鑑三翁や基督教思想のすぐれた研究者とは全く知らなかったのだった。

今次最高裁判決を機に鑑三翁や小沢三郎先生など、様々のことを考えることになった。深い縁を感じている。(この項おわり)