KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

校歌歌わず君が代斉唱の珍奇

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新型コロナウイルス感染拡大中の20年3月、東京都立学校全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていた。全国一斉休校となり飛沫感染を懸念する学校で、合唱歌や校歌も歌わず卒業証書を手渡す際にも生徒の名前を読み上げることもしない中で、何故「君が代」が歌われたのか。それは東京都教育委員会が実施を指示していたことが背景にある。珍奇な現象である。

君が代」斉唱に関しては長い歴史的な背景がある。「新潟大の世取山洋介准教授(教育政策)は、思想・信条の自由から「君が代」斉唱時に起立しない教職員に都教委が処分を続けてきたことを挙げ、「何百人も懲戒処分してきた結果。歌わないことが合理的なのに、萎縮して判断できない教育現場の思考停止を表している」と話している。」(東京新聞200720)。中京大・大内裕和教授(教育社会学)のコメント。「今春の卒業式で、何よりも「君が代」が大事だというメッセージを子どもたちに送ってしまった。本来、生徒の卒業を祝う儀式が、国家主義イデオロギー注入の場になっている。‥思想・良心の自由を定めた憲法19条を巡って、国歌斉唱の強制は議論されてきた。全校斉唱で新たに、子どもが安全に教育を受ける権利を侵害するという26条についての議論が加わった。」(東京新聞・同)

話は2年前にさかのぼる。ワタシの当時のメモだ。暑気の中次の記事が目に止まった。記事の扱いは大きくはない。ワタシもかつてはこの問題に強い関心を抱いていたが、時の経過とともに忘れかけていたので、あぁあの先生たちはまだ闘っていたのだとの感慨が先に立った。以下記事を引用する。

「卒業式などで「君が代」の斉唱時に起立しなかったため、再雇用を拒まれた東京都立高校の元教職員が、都に賠償を求めた訴訟の上告審判決が(2018年7月)19日、最高裁第一小法廷であった。一、二審判決は都に約5千万円の賠償を命じたが、山口厚裁判長は「都教委が裁量権を乱用したとはいえない」としてこれを破棄し、原告側の請求をすべて棄却した。君が代をめぐる訴訟で、最高裁は2011年に起立斉唱を命じた職務命令を合憲と判断。12年には職務命令に違反した教職員の懲戒処分で「戒告は裁量権の範囲内だが、減給・停職は慎重に考慮する必要がある」との基準を示した。」(朝日新聞デジタル20180720、記事要約)

なぜ君が代を歌うか、なぜ日の丸国旗に敬礼跪拝するのか…ワタシもそうだが、多くの人たちは”皆がそうしているから””何となく”というのが本音である。ところが問題は、国や自治体が「脅迫観念に駆られて」このような行為を強制したり「愛国心」と結び付けたり、”お上にへつらって”その行為を為さなかった者を告発したりチクったりするので、事が迷走する。日本人なのだから件のお得意の”何となく”で行けばいい。

国歌・国旗など形骸にすぎないので、「何となく国の歌になったので歌うもの」「何となく国の旗になったので汚さないもの」程度に放っておけばいい、とワタシは考えている。ましてや「愛国心」のように屁のような空気のような非実体のものを恰も実体の在る如くに強弁し、踏み絵の如くに示す輩がいるのでかなわない。これら輩は「愛国心」を唱えて”お上への恭順”を露わにして、お上からの誉め言葉を待っているのだ。

ここは内村鑑三翁に耳を傾けよう。「愛国とは自身金を儲けて国益なりと世に風聴することなり。」(内村鑑三全集9、p.40、1981.)、そして「我国人の前に愛国心を語る必要はありません。」と記している(同書、p.148)

最高裁長官及び判事の人事権については内閣に任命権があり、高等裁判所など下級の裁判所の裁判官は、最高裁判所が提出する指名名簿に基づいて内閣が任命する。このように、司法の人事権に対して内閣の影響力が強いことが、違憲立法審査との関係で懸念されているところだ。アベ内閣になってより、弁護士会から最高裁判事に推薦された者をアベが拒否してお気に入り判事に挿げ替えた一件は記憶に新しい。よって三権分立の不可侵の威厳を保つべき最高裁判所は、今日日では内閣の下僕と見做すべきだ。だからこのような判決が出続けている。民主主義は危うさから崩壊への道をひた走る。(この項つづく)