KANZOに聴け

内村鑑三翁が生きていたら何を考え何を語るのだろう…

「就職氷河期世代対策」の虚!

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自民党コイズミ政権(2001-06)下では、「構造改革」つまり官から民へという「錦の御旗」のもとに、労働者派遣法の規制緩和を実行した。これには自由主義経済学者(?) タケナカヘイゾウが国務大臣として深く関わった。タケナカはその後平然として大手派遣企業の黒幕として居座り、アベ政府ブレーンとしてヘタレ政策の一翼を担ってきている。そう言えば当時タケナカは論文偽造疑惑で”御用学者”と指弾されていたな。恥を知らない人間だ。権力への野望と強欲に目がくらんだこれら輩は、人間を尊ぶ社会を作るためのセーフティネットを闇雲に破壊して恥じるところは、ない。

この規制緩和は「非正規労働者」の採用を激増させる引き金となった。正社員の新卒一括採用といった雇用慣行や、非正規雇用拡大政策などに翻弄されて就職が決まらないまま卒業した人は、2000年には約12万人に上ったという記事があった。ワタシは直近の「労働力調査」を調べてみた。1990年には「非正規」870万人・「正規」3,473万人で「非正規」が全労働者に占める割合は20%、2019年では「非正規」2,090万人・「正規」3,445万人で同割合は37.8%にも上っている。

雇用形態はこの間”激変”した。これによって日本の労働者の人たちは、より一層の”幸福感”を抱き生活してきただろうか……。ワタシは周囲を見回し生活している人たちを見ながら断定する――決して幸福感を抱いては来れなかった、と。

ワタシは非正規労働(者)そのものを問題にしようとは考えない。そうではなくて本来正規労働者であるべき人たちが非正規労働者として働き、低賃金や賃金格差及び不安定な労働条件下に置かれていること、景気回復後も企業は正規労働者の採用を減らし内部留保が急増してきたにもかかわらず、収益を労働者に還元してこなかったことが問題なのだ。富を持てる者のそれは増大し続けるという"強欲”が生活哲学と堕したアメリカ産業界に象徴される資本主義の悪しき落とし穴だ。日本独特に生まれた淫靡な企業風土もあり、その結果日本では派遣切り、ワーキングプア問題という悲惨を再生産し続けて来ている。

このような労働力の偏った流動化が産業の空洞化、つまり優れた人材の払底、技術開発力の低迷、労働者の働く意欲と能力の低下、何よりも人々の間の経済格差をもたらしてきたと指摘する識者は実に多い。日本をダメにしたのは規制緩和の名のもとに非正規労働者を激増させたコイズミからアベに至る政府の失政と喝破する識者がいるのも当然である。

就職氷河期」というのは、バブル経済がはじけ景気が後退した頃に就職に直面した世代の人たちを言うが、この世代の人たちは、上記の理由から就職がままならず、十分な能力を身につける機会もなく、非正規雇用など、安定した職業に就けていない場合も多い。そして社会経済的な問題がこの世代には突出している。

この人たちの立場に立って考えてみると、就職のつまずきから自信を失い、ニートや引きこもりに至ったケースが多い。2019年3月に公表された調査(内閣府)では、40~64歳の中高年で引きこもりの人は推計61万3千人に上り、若年層(15~39歳)の約54万人を上回っている。きっかけは「退職」の36%が最多で、非正規雇用などの不安定な雇用状況と政府の失政が背景にある。

ここから本題、というか結語。アベ内閣は2019年6月初旬、”突如として”「就職氷河期世代」の集中支援策を「公表」した。予算の裏付けや詳細な施策を伴っているわけではない。今さら何を…と評価する新聞報道もあり、政府のこの施策への関心や期待は薄いらしく、記事の追跡もほとんど見かけない。なぜなのだろうか。 

その理由は、政府が打ち出した集中支援策の中身にある。即ち①都道府県と経済団体、人手不足の業界などが連携する新たな枠組みの創設、②都道府県ごとの実施計画・目標の設定と、支援の進み具合の点検、③就労支援のノウハウを持つ民間業者への教育訓練の委託…などをうたっているが、まるで空虚である。腹を据えて責任をもって実行しようとする意思は見えない。これをアベ内閣は胡乱(うろん)な政界用語「骨太云々」とか称しているから笑える。稚拙な作文で、明らかに「選挙対策」のために拙速で作られたものであることがよくわかる。あまりに空虚だから新聞の追跡取材の価値もないわけだ。

 頻繁に嘘をつく政府が、口先だけの国民を愚弄する斯様な「御為ごかし」政策を選挙対策用にまたまた打ったのだ。国民に対して”強い”責任を意識していないから、この「就職氷河期」対策なるものも「作文」と「空砲」とワタシは断定する。過般の「認知症対策大綱」も、策定計画の中身が杜撰との指摘を受けたのでひっそりと取り下げようとしたではないか。

ここには国の根幹を構成する施策への「責任意識」は皆無である。内村鑑三翁の言を聴こう。

華族富豪の子弟の内に狂人に類したる、権衡(※バランス、つり合いのこと)を失ひたる人の多きは、是れ亦同一の理由を以て説明する事が出来る。人生貴きものにして責任観念の如きはない。是れありて人は重味附けられて、知能を磨き品性を養成するのである。責任なき者は底荷(バラスト)なき船の如く、常に人生の波に漂はせらる。」(内村鑑三全集30、p.412) 

……華族とか富豪の連中の中に、物事に対する平衡観念を完全に失っている人が多いのは、一つの理由で説明できる。人間の人生にとって責任観念ほど重要なものはない。責任観念があってはじめて人間は人間らしくなり知性や品格が出て来る。責任観念のない者は、船の底荷のない船のようで人生の波をふわふわと漂っているだけだ。……

アベ内閣の"政策責任者たち"はこの言を何と聴くか。心あるならば心で聴け。

”世論”の虚

 

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内村鑑三翁の言である。

輿論は神の声なりと意(おも)ふは非なり、神の声は常に輿論に反対す、昔時の予言者は皆悉く輿論の反抗者なりき、人類何者ぞ、聖書に曰くエホバ天より人の子を望みて悟る者、神を究(たず)ぬる者ありやと見給ひしに皆な逆(そむ)き出て悉く腐れたり、善を為す者なし、一人もなしと(詩編十四篇二、三節)、神を反き去りし人類の輿論は神意を伝ふるものにあらず、吾人は神の言たる聖書に聴くべし、悪人が多数を占むる社会の輿論なるものに従ふべからず。」(内村鑑三全集13、p.122)

‥‥世論は神の意志だと考えるのは間違いだ、神の声というのは常に世論とは対極にあるのだ、かつての預言者は皆世論に反抗した者たちだったではないか、聖書詩篇(14篇)には「主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みな等しく腐れた。善を行う者はいない、ひとりもない。」とある、神に背いた人類の世論は神の意志を伝えるものではない、私は神の言葉である聖書に聴き、悪人が多数を占めている社会の世論なるものに従うことはない。‥

基督教の信仰の有無にかかわらず、鑑三翁の言には傾聴すべき深い真実が込められている。

大手新聞TVがせっせとやっている「世論調査」なるものをワタシは信用していない。何故信用しないかと問われれば、大手新聞TV企業の間の調査結果内容が”大きく”異なる事実だけで説明できる。例えば典型的には、「アベ内閣を支持しますか支持しませんか・それはなぜですか」の質問に関して言えば、①エヌエッチケイニッテレフジサンケイヨミウニッケイジジツウシンは「アベ内閣の支持率は揃いも揃って異様に高く」、②マイニチアサヒティービーエステレビアサヒキョウドウツウシンは「①に比して低い」からだ。この事実は何処でも彼処でも言い回されていることだからここで議論しても詮無いことだが、「内閣支持率」なるものが①と②で常に異なる結果が出ているということは、これらの数字は「何らかの操作が行われ・バイアスが掛けられている」ということは事実だ。設問の内容、電話(固定・携帯)の方法による違いもあるだろうが、それにしても”常に毎度”①は現政権への支持率が高く出ているのはどういうわけか? 

そしてこれら新聞TVは、斯様な胡乱な「世論調査」を前提として論陣を張っている。これは「欺瞞」である。何故と問われれば答えよう――そこに「真実」を探る眼、そこから先の本当に大事な事柄を考える力が覆い隠されてしまっているからだ。

何が世論なのか、世論はいつも「正しく」「公平で」「公正で」「真実」を示しているのか? 報道する者たちは、常にそうした視点から記事を書き報道しているのか? ――ワタシは決してそうは思わない。社会公器の旗を掲げて(それは勝手だが)公共放送と公言して憚らないエヌエッチケイなどは特に悪質である。”いつもあなたに寄り添って”とか意味不明不気味な常套句を吐き続けるこの”公共放送”は、幹部人事まで丸ごと政府の手が伸びていて、「無謬性」を謳いながら強権政府の言いなりになりへつらい、「誤った」報道内容によって視聴者を政権支持へと巧みに誘導している。エヌエッチケイの利得は身分保存にある。

視聴者をブタの群れのように見なし奈落の海になだれ込まそうとしている。かつての戦争も斯様な報道が国民を愚弄して誘導し、戦争に突き進んだことをワタシは忘れていない。

鑑三翁はこのようにも述べている。

「平和の貴きは其回復し難きに存す、衆愚の声に聴いて濫りに之を破り怨恨を千載に遺す者は禍ひなるかな。」(内村鑑三全集13、p.262)

‥‥平和の尊さは戦争の災禍を体験してわかるものだ、一旦戦争を起こしてしまうと取り返しがつかない。衆愚の声に頼って平和を破綻させ怨恨を後世に残す者は災いである。‥‥

こんな記事をたまたま目にした。

《今、固定電話に世論調査の電話がかかってきた。コンピュータ音声で番号を押して答える方法なのだが。「衆参同時選挙になった場合、選挙に行きますか?」→「行く」、「自民党に投票しますか?」→「しない」、「現内閣を支持しますか?」→「しない」。プー(突然切れる)、何これ⁉️」「朝日新聞には、世論調査の方法についても詳細が公開されているのでわかる。読売新聞の最新の調査では、有効回答数すら公開されてなかった。」》

このツイッターの投稿内容が「事実」かどうかはワタシには確認の仕様がないが(「フェイク」の可能性もないではない。これは同種の事実を経験した人が相応の数が居ることが必要だから)、ワタシは”十分あり得る事”と今考えている。

 

イランに何をしに行った?

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鑑三翁は政治家ではなかったのだが(実は鑑三翁の見識と雄弁のゆえ政治家への誘いは頻繁にあったが彼は一笑に付していた)、国家間の「外交」とは国家間の利害に関わる厳しい戦いであり、国と国との間に横たわる宿痾とも言える現実を認識していた。今日日、アベ首相が何もかも目前の「選挙対策」として、語るのも恥ずかしい「外交らしきもの・おもてなし外交」をヌケヌケとやっていることにワタシは絶望感を抱いてる。「誠心誠意をもって誠実に」「やってます・やってます」の口先だけの無為無策の空砲と空手形、あれも・これも・それも・何の成果もなく、この国の利益を毀損して、道徳的にも頽廃の相を示している政治(家)とは何なのか。またこんな輩に騙され・諂(へつら)う日本のマスコミ及び日本人も同罪――とワタシは書いた(19年6月10日)。

そして無自覚な懲りないアベ首相は、胡乱な「世論調査」が高い支持率を維持していることを受けて舞い上がったままイランに行った。トランプには「私が仲介をすればイランとアメリカとの間の齟齬は何とかなりますよ」とか何とか言い、トランプも「そうかね、君に頼むしかないね」。そしてエヌエッチケイのイワタという女性記者や、アベ首相友だちのキョウドウツウシンのタサキとかいう御用記者たちの発言にとどまらず、マスコミこぞっての不気味な礼賛記事がアベ首相のイラン訪問時には続いた。タサキという記者はアベ首相が何かの外交カードを持って出かけるぜ、としたり顔でTVで話していたらしい。フェイクはこのようにして捏造されていく。もはや犯罪と同類である。

そして悲惨な結果がアベ首相を待っていた。アベ首相がイランのハメネイKhamenei師との会談中というタイミングで、日本国籍タンカーがミサイルらしき物に被弾した。日本のメディアは信用ならないから海外の評価を見る。「米紙ウォールストリート・ジャーナルは14日、安倍晋三首相のイラン訪問中に日本のタンカーが攻撃を受けたことに絡み「中東和平における初心者プレーヤーが痛みを伴う教訓を得た」との見出しで報じた。タンカー攻撃で緊張が高まる中東情勢を踏まえ「日本の指導者による41年ぶりの訪問を終え、米国とイランの対立関係は以前より不安定になった」と論評。安倍氏は、イランの最高指導者ハメネイ師との会談で「米国がイランとの誠実な対話を望んでいる」と持ちかけた後に、ハメネイ師から非難を受けたとした。」(ワシントン共同、190615)

ハメネイ氏のツイッターを翻訳してくれた人がいる(T.Katsumi氏)。ハメネイ師とアベ首相との会話記録だ。トランプのメッセンジャーアベ首相に対するオトナの百戦練磨の宗教指導者の言として傾聴すべきだ。ノコノコと出かけて行ったアベ首相に「外交」という厳しい現実を突きつけたものだ。このハメネイ師の記録はエヌエッチケイなどは報道しないのだろうな、公平公正の社会公器を謳う公共放送が泣いている!

ハメネイ師とアベ首相との会談の模様の写真を見た。アベ首相が痛烈な屈辱を味わい、自分の無知蒙昧を思い知らされていた最中だ、目が完全に宙を泳いでいる。早く日本に帰りたい…ヤバいなトランプに何と電話しようか…オレは何をしにここまでやって来たんだろうか…この屈辱の事実を公開したら内閣支持率は下がるだろう、まずいな、記者会見のコメントでは嘘で固めるしかないな…彼はそう思案している。アベ首相は格の違うハメネイ師の前では、猛禽の餌食になろうとしている子ネズミのようだ。

ハメネイ師を含めたイランの幹部たちがアベ首相に会うことになった背景には、人的交流を含めた日本のODAの長い歴史が存在したからである。アベ首相よ、このことを忘れるな。だから今回のアベ首相の仕業で、長い間の外交関係で築き上げた日本とイランの友好関係にもヒビが入った可能性さえある。

イギリスBBCはアベ君のイラン訪問は選挙対策、と報じたらしい。笑うしかないのは、アベ首相とハメネイ師の会談直前に、アメリ財務省がイラン関連企業などへの追加制裁を発表したことだ。アベ首相のパフォーマンスは当のトランプからもコケにされていた。

後ろめたさなくば堂々と国連に返事を返せ!

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内村鑑三翁は日記に記す。国による言論統制の話だ。

「(1919年)3月15日(土)大雨 警視庁に呼出され三月号雑誌の記事に就て注意を受けた、「聖書と現世」の一欄時事に触れるの虞れありとの事であった、謹んで御注意に順ひ此欄を廃することに決定(きめ)た、永遠の聖書を研究せんと欲する者が必しも時事に就て語るの必要はない、」(内村鑑三全集33、p.84、日記)

「(1919年)4月11日(金)晴 北風にて寒し、山岸(※壬五)と共に警視庁に往き『聖書之研究』に於て時事問題を論じ得るの権利を得んがために保証金として千円を納め其手続を了(おわ)った、斯くして爾今本誌に於て国際聯盟、平和会議、世界改造等を論ずるも法律に触れるの虞れなきに至ったのである、我等は此世の事に就て論じたくはない、然れども来らんとする神の国に就て論議するに方(あたっ)て時には此世に就て語るの必要がある、預言は神と信者の立場より見たる人類の歴史である、故に預言研究に従事するに方て時事問題を避くることは出来ない、新聞紙法に順て本誌を発行するの必要は茲に在る、実に止むを得ないのである。」(同書、p.95)

3月に警視庁に呼び出され、自らが編集発行している『聖書之研究』誌に鑑三翁が執筆した記事について注意を受けた。一旦は引き下がったものの、時事問題を離れて鑑三翁の無教会信仰の宣教や聖書研究の目的は果たせないと悟ったので、鑑三翁は警視庁に出向き、時事問題を論ずるための許可を得るために千円という当時では大金を支払っている。警視庁は国や政府の批判はするな、為したら捕縛するのを覚悟しろ、その約束のための保証金を納めろ、というわけだ。鑑三翁はこのときオトナの対応をした。不敬事件と言われる災厄に遭遇した頃の若き内村鑑三であったら、このようには対応しなかったのではないか。

この鑑三翁の日記を読んで、往時の言論統制は実に淫靡に他方では実に直截的に行われていたことがわかる。この鑑三翁の日記を引用したのは、今日日ワタシが生活しているこの国でも、実に淫靡に巧みに言論統制が為されていると考えるからだ。その具体例はまた別の日に書く。

国際連合は、言論と表現の自由に関して、日本政府への大きな懸念を示す報告書をまとめた。国連のこの特別報告書は2019年6月24日の国連人権理事会に提出されるという。国連の特別報告書とはいえ日本の言論と表現の自由への危惧に関して、極めて重要な指摘を行っていると思われる。報告書の要点を記事から引用させていただく(「東京新聞」2019年6月5日)。

言論と表現の自由に関する国連のデービッド・ケイ特別報告者が、日本では現在もメディアの独立性に懸念が残るとする新たな報告書をまとめたことが四日分かった。日本の報道が特定秘密保護法などで萎縮している可能性があるとして同法の改正や放送法四条の廃止を求めた二〇一七年の勧告を、日本政府がほとんど履行していないと批判している。報告書は六月二十四日開幕の国連人権理事会に正式に提出される予定。報告書によると、日本政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条は効力を持ち続けており、事実上、放送局への規制になっていると指摘。政府に批判的なジャーナリストらへの当局者による非難も「新聞や雑誌の編集上の圧力」と言えるとした。「政府はジャーナリストが批判的な記事を書いても非難は控えるべきだ」としている。ケイ氏は一七年に公表した対日調査報告書で、日本政府に十一項目を勧告。勧告に法的拘束力はないが、政府は不正確な情報に基づくと反論していた。ケイ氏は調査の結果、九項目が履行されていないとしている。(※以下略)

このように前置きした上で、「勧告11項目と日本政府の履行状況」及び「沖縄県辺野古移設への抗議活動への圧力批判」を報告している。この報告書に関しては日本政府からの回答・コメントは無かったという。この報告書には法的拘束力はないので、無回答は現行政権の常套手段だから当然か。

この国連の報告書に関する官房長官スガの記者会見の映像を見た。国連には無回答を決め込むが、内向きの政府だから記者会見程度はできる。報道記者たちの懐柔も完了している。最近の記者は「記者会見で言われたことを書くのが報道」と考えているし、記者会見では入社何年かの若年記者が大半で、痛烈なやりとりはなく凡庸な質疑に終始するのが定例だ。

ノミよりも小心なくせに無理して平然さを取り繕っているので、いつも木彫りの能面のような表情のこの官房長官は、言葉少なく”抗議をした”とか何とか、モゴモゴと口ぶりまで覚束ない。「令和オジサン」(これも大手広告代理店の仕込み)とか何とか言われているが、その実像は怖い、寝技とチクリが得意技で陰湿、背後から切りつけるのを常とする、内閣府の役人数百人をフル稼働させて、新聞記者はじめジャーナリスト、学者、与野党問わず政治家の尾行と情報収集を得意とする、恫喝と裏取引のために。官房機密費も遣い放題で敵対者の懐柔には札ビラを切る。

しかし海を越えて晴天の空から降ってきた斯様な指弾にはスガは悶々とするしかない、選挙の前にヤバいな…、内閣府の役人たちも手の届かないところから発せられた矢玉だからな…、ここは毎度の如く木で鼻を括ろう、逃げるに如くはなしだ、とこの男は思案している。

外交らしきもの―アベ海外旅行

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内村鑑三第一次世界大戦後の戦後処理に関して次のように記している。

「所謂外交とは何ぞ、他国を盗む事のeuphemism(言を美はしくして云ふ事)に過ぎない、一国が他国を盗む事は未だ重き罪悪として認められないのである、露独墺の三国聯合して波蘭(ポーランド)を奪ひしは実に大なる偸盗(ちゅうとう)であった、而して独り彼等三国に限らない、世界各国が同じ罪を犯しつつある…」(内村鑑三全集25、p.285)

「外交」を時代背景抜きに論じても詮無い事柄だ。しかし鑑三翁の言う通り、歴史は外交とは大なる偸盗をなすものであることを示す。外交とは今でも領土の分捕り合戦であり、国の利害に関する損益合戦であり、歴史的桎梏に関わる国家間の厳しい戦いである。国家安全保障national securityと国際安全保障international securityとの輻輳した戦いでもある。詮ずる所「外交」とは厳しい国家間の戦いである。国と国との間の宿痾(しゅくあ)でもある。

アベ首相が嫁さんを連れて海外に言ったのは七十何か国だとかなんとか自慢していると仄聞した。アベさんはこれを「外交」と本心で認識しているから恐ろしい。外国の首脳首長…らと嫁さんと並んで握手する写真はどれほどの枚数になったのだろう。彼が老いぼれて叙勲記念に出版する功績写真集にはどれほどの写真がのるのだろう…彼はそれらの写真のことで実はアタマが一杯なのだ。あと何か国”外国旅行”に行けるだろうかを楽しみにしながら首相の座に居座るのが生き甲斐だ。イギリス・メイ首相はブレグジット問題の混乱で辞任させられたが、アベ首相は靴底みたいに厚顔で”嘘つき二枚舌無恥馬鹿”とまで言われて恥をさらして居座っている。

「おもてなし外交」とか「おもてなしの心をオリンピックで」とか不気味な語彙や仕草が飛び交っている。これらの言葉を使っている連中は、本当に本心から「おもてなし」のことを考えてこのように表現しているのだろうか。ところがどうもアベ首相らは本心から考えている気配だから、余計に不気味だ。怪奇だ。

アベ首相の「おもてなし外交」なるものは虚である。領土問題、拉致問題、関税に伴う損益など滅多やたらに動いて「やってますやってます」だけで、思慮深さはまるでない。”前提なしに”北朝鮮に行くとアベ首相は公言したが、実は真っ当な外交交渉ができないからこのように言っているだけで、又ODAの手土産でも持っていけば”何とかなるさ”程度の認識しかない。”誠心誠意をもって誠実に行く"とアベ首相が言うのに返事もなく会おうとしないのは、「北朝鮮が誠実ではないからだ」と言い訳ができるし、仮に金と会えても拉致問題に何も進展がなければ、「北朝鮮が誠実ではないからだ」とこれまた言い逃れできる――このシナリオは完成されていて、何もかも目前の「選挙対策」。これが「おもてなし」外交の真髄だ。甘ちゃん、である。

「誠心誠意をもって誠実に」「やってます・やってます」の無為無策の空手形、あれも・これも・それも・何の成果もなく、この国の損益を最悪にして、道徳的にも頽廃の相を示している政治(家)とは何なのか。またこれに騙され・諂(へつら)う日本人も同罪。何とかしなければ!

そもそも日本のODA予算の考え方は、日本の安全保障を担保する目的もあって、日本人の専門家を開発途上国に派遣して現地の人たちと地域開発事業を推進したり、外国の専門家を招聘して教育したり、開発途上国のインフラ整備も現地ニーズを的確に評価して実施されてきた。このような技術協力を含めた日本の外交政策の方法は、海外からの高い評価を得て推移してきたことは間違いない。このことは費用対効果の点でもノーベル賞モノと言う人たちもいる。このことは政情不安や不衛生や不十分な環境の下で働いてきた専門家たちが最も実感しているところだ。

こうしたJICAなどが実施してきたODA予算は、わけもわからないうちに内閣総理大臣のへつらいとアベ個人の人気取りに無闇に利用されて、外国旅行に行くたびに「手土産」扱いされている。この現実に怒りを隠さない関係者も実に多い。そして「手土産」にされてしまった結果、日本のODAは、一帯一路の壮大な野望に裏付けされた中国の乱暴な錢撒きODAと同質のものとなりつつある。手間がかからず見栄えがいいからだ。無償有償借款を問わない。

人間の人間によるソフト開発に特質のあった日本の外交政策の要としてのODA予算は削減される一方で、ODA現場では萎縮が始まっている。”あとはなんとでもなれ”アナーキー外交の現実であり”外交らしき”空虚である。

アベ君!憲法全文を読みなさい!

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内村鑑三翁は、聖書の解説で詩篇(12:8「卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままにあるいています」) に触れながら、次のように記している。1910年の頃だ。

「卑劣なる彼等は曰ふ「我等は舌を以て勝たん」と、彼等は正々堂々義を唱へ、理に訴へて勝たんとはせず、誹譏(ひき)、讒謗(ざんぼう)(※誹譏・讒謗はそしることを言う)、毒舌を弄して人を斃(たお)さんと計る、彼等に武士の勇気なし、君子の公明なし、彼等にたゞ蛇の舌あるのみ、」(内村鑑三全集18、p.77)

卑しくて倫理なく邪悪な事柄が人々の中で諂いとともにあがめられている。そんな中では邪悪な心をもつ者たちが大手を振って街中を闊歩しているのだ。これら卑劣な者たちは、弁舌をもって敵対する者たちの言動を封じるのだと公言している。これらの者たちは正々堂々と立って、正しい事は何か、摂理の正しさを訴えることはしない。その代わり相手をそしり、悪口をもって倒そうとする。この者たちには武士の潔い勇気や公明正大の志というものはない。この者たちには相手をたぶらかし嘘をひたすら言い続ける蛇のような邪悪な心があるだけだ――鑑三翁はそう言っている。ここでいう”卑劣なる彼等”とは、何も政治家だけではなく鑑三翁周辺の権威を振るう者たち全てを指している。

日本国アベ首相が在職2700日を越えた日に「国民に感謝します」と嬉々として述べた映像を見て、思い出した場面がある。かつての国会予算委員会審議の場でのことだ。NHKなど公共放送のTV報道が偏向しているとの野党の追及に会い立ち往生しそうになったときの映像だ。彼(アベ首相)がおもむろに手を挙げて「私にも言論の自由があるので言わせてくださいよ!」と立ちあがったのだった。ワタシは”こいつ何をぬかすのか”と違和感を通り越して啞然呆然、思わず失禁(!) しそうになった。彼は自分の置かれた日本国首相の身分を忘却してこう発言したのだった。あぁこれがわが国を代表する宰相総理大臣首相かよ! そう感じた人はワタシばかりではなかったはずだ。「美しい国…」のような物欲しげなタイトルの堕本(言うまでもなくゴーストライター本)で、美辞麗句御託を並べ、憲法についても触れていたのに、この無知な発言は彼の素性を露呈したものだった。斯様な発言は立法府と行政府の識別も出来ないその後の発言にも続く。

そもそも「言論の自由」とは、①日本国憲法で国民に保障された権利である、これは中学生にもわかるだろう。そして②この権利保障は、国家権力が国民の言論の自由を保障したものであって、国家権力によって国民の言論の自由が抑圧されてはならないことを意味している、これも中学生にはわかるだろうが、アベ首相にはわからなかったのだ。きっとそうだ。

アベ君のためにもう一度おさらいしてあげよう。日本国憲法のこの部分だ。

「第二十一条①集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

彼に「憲法」を教えた大学のセンセイは誰か。しかしこういうことだ。「安倍総理は大学で憲法を習ったのだが、知的レベルが低すぎて、「立憲主義」という憲法に関する最も重要な基本哲学を理解することができなかったという説も囁かれた。」と指摘する識者もいる((古賀茂明:日本中枢の共謀.p.151、講談社、2017.) 宜(むべ)なるかな。

そのアベ首相以下政権政党憲法改正を声高に叫んできた。彼らが提案している改正条項は9条にとどまらないのだが、アベ首相の所属する政党の憲法改正案に関しては、首尾一貫せず乱雑で無定見というのが第一線の憲法学者の共通した声だ。

そしていかにもそれらしい汚れた表紙の商業雑誌のいくつかが並走するかのように確信犯的に特集を組んで論陣を張るから笑える。登場するのはいつも決まりきった名も聞いたことがない評論家風の者たちで、アベ首相礼賛の諂いの賛意を示し続けて恥じない。これら汚れた雑誌は、党費でのお買い上げが大半なのだろう、売れ残ったバックナンバーも大手取次を屈服させて、これまた大手書店に押し売りしている。しかしワタシがよく立ち寄る吉祥寺の大型書店には、これらの雑誌が1冊も置かれたことはない。商売、ビジネスにも見識を示す例がたくさん現存する。一つの希望である。

東京裁判で敗戦国の日本を極悪非道な悪者にするために南京事件をでっち上げたGHQが、日本国憲法を日本に押し付けた――といった程度の認識しかもたない議員が少なくありません。」 (笠原十九司、世界、2017年12月号、p.176) というから、事はアベの問題だけではないことはワタシも承知している。

 

ボーッと生きて在職2700日か!

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日本国アベ首相は、”通算”で在職日数が二千七百日を越えて歴代3位の初代首相伊藤博文と並んだことについて、嬉々として「国民の皆さまから力強い支援をいただき感謝したい」と述べたとか。思弁なく思想なく漢字も十分に読めず活舌も覚束ないこの人は、手練手管を使ってただだらだらと長く居座っているだけにすぎないのに。長さが尊い価値とは誰が言ったのか。独裁者リビアカダフィは42年、イエメン・サレハは33年、チェニジア・ベンリアは23年、親子継承の長期独裁政権となれば北朝鮮がある。

「国民の皆さま」とはよく言うよ、選挙では日本人の3割の人しかアベ首相の政党を支持していないことを忘れるな! いずれにせよ、ワタシが前回記したように、国家は何があっても間違えないもの…との幻想に浸り続け、寛大なのではなくただの怠惰に身を委ねる茹であがったカエルのような我等日本人がイカサマ政治を長い間放置してきただけだ。この貧しい無為無策のボーッと生きてきただけのアベ政権を。

明治から昭和を生きた基督者にして言論世界でも影響力の大きかった内村鑑三翁は、政治家についてこう記している。

「国を治むる事は左程の難事にあらず、難事とは蓋(けだ)し我意を支配するにあり、慾を抑ふるにあり、位を軽んずるにあり、心の富を楽んで身の栄光を耻(はじ)とするにあり、英傑は政治家の中に求むべき者に非ずして反って小農小賣の間に尋ぬべき者なるは全く之が為めなり。」(内村鑑三全集8、p.70)

この引用文をワタシなりに翻案の上現代語訳してみる。つまり政治家や行政官など国の運営にあずかる人間の仕事なぞ、大して難しいことじゃない。政治家も官僚も部品のようなもので、それ自体は何者でもなく単なる部分である。国家や自治体などは全てが部品の寄せ集めで成り立っているのだから、彼らが国や自治体の全てに精通しているのではないことは自明のことだ。そこで働いて国費を懐にしている彼らは、肩を怒らせているだけで中身は権力欲と保身欲と金銭欲の塊りのようなものだ。

本当に人間にとって難しいのは自分自身の意志と我欲をコントロールすること、総理大臣官房長官〇〇大臣といった社会的組織の長などの地位に執着しないこと、心が豊かであることを楽しみ叙勲などの授賞を心から恥じること、そういった精神的な高さを保つことこそ難しいのだ。傑出して優れた人間というものは政治家のような人種におらずに、むしろ農業や商売人といった市井の人の中にいるものだ――鑑三翁はこのように言っているのだ。

鑑三翁の言は1900年頃のことだ。それから120年近くも経つのに、アベアソウスガ…といった今の政治家という人種を見ると、国家百年の計どころか手前の保身だけに走り、親の七光りによって凡庸な意識しかもてず馬鹿で強欲で傲慢不遜、権力にしがみつく快感に浸り続けひたすら陳腐な政党の泥船で酔っているだけだ。何が国民に感謝だ、勘違いも甚だしい。

鑑三翁のごく当たり前の見識にワタシも同意する。別にアベアソウスガ…といった連中が居らずとも国は動く。大であれ小であれ企業も同様、代表取締役専務取締役とかCEOが居らずとも企業を構成する社員の仕事への献身が企業を動かしている。

だからアベアソウスガ…君たちは勘違いするな。人間の労働経済活動、社会の法や制度・システムによって国というものは動いていく。君たち一握りの人間たちの余計な所作によって、煩いの火が燃えることなく/愚かな戦いを起こすことなく/せっかく増やした冨と蓄えが減らないことのために、国民(くにたみ)は”止むを得ず”選良を選んでいるのだ。「選良」であるぞ、つまり「選ばれたすぐれた人/選挙によって選び出された代議士」のことだ。アベ以下の連中が選良でないことは自明。だとすれば、君たちに代わる少しでも「選良」にふさわしい者たちを選ぶしかない。